時事放談20

木村天山

 文章の読解力以前の問題である。

 私の文章を読み、怪しい人、果ては、宗教をやっているのか等々、人づてに聞く。

 

 私ほど、宗教団体を否定する者はいない。

 その教義や教理も妄想であると断定している。その私が、何ゆえ宗教をやっているのか。祝詞を唱えることが宗教行為であると言われれれば、それはそれでよし。ただ私は、宗教団体に所属してはいない。

 私はカトリックを通り、仏教に至り、バリヒンドゥーに至り、そして古神道に至り、今は、古神道の研究をしている。それは日本の伝統であるという意味である。

 

 怪しいと言うのは、霊的なことを言うからであろうか。それならば、それでよい。

 霊的なことを抜きにして、語れないことが多いから語る。それを否定する者は、否定すると良い。死んだら解ることであるから、私は、説得もしない。

 

 実に、世の人々は、学ぶに偏狭である。

 私は無知の知など知らない。知識と教養の知なら知っている。無知に知など有り得ない。こうして、言葉遊びに始終する者共を、笑うのである。

 無知を知ることが知の初めである。一体、これは、どういう意味か。

 それならば、無学の意識であろう。無学の意識があって、知というものを憧れる。

 知を知らずして、無知など解るはずがない。

 無知の知ではなく、知の無知である。

 

 「花は心、種は技」と世阿弥が言う。

 花は種があって開くもの。心は技があって成り立つもの。

 これを現実という。言葉遊びをしている西洋の言葉の世界に、大勢が染まり、我を失って、この国の伝統さえ、知らないという仰天である。

 それが、大半になって、私のような者を、怪しい者と言う。理解不可能なものを、宗教と括る。

 

 こうい事態を、万事休すと言う。

 本当に、ごきげんよう、である。

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