時事放談21 2006/9/11

木村天山

 4月13日、東京新聞の、教育基本法の改正についてをを読み、この問題について、いずれ書こうと、その記事を保存していた。そう、忘れた頃に書こうと思っていたのだ。

 どんなに議論されても、すぐに忘れる国民である。

 ここでは、自民、公明の二者が合意した文言がある。

 「伝統と文化を尊重し、それらをはくぐんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」

 愛国心という言葉は、公明党の反対で使用されなかった。何故、愛国心という言葉が駄目なのか、非常に疑問である。公明党は、日蓮仏法を貴びと入れると納得するのであろう。そして、日蓮仏法を国法として認めるというならば、了解するのであろう。ローマカトリックのような、非常に野蛮な宗教団体になりたいのであろうか。

 私が素晴らしいと思うのは「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という文言である。

 一神教の宗教を持つ国では、こういう言葉は出ない。

 同じ神を奉じない者は、人間ではない。同じ神を奉じても、ユダヤ、キリスト、イスラムを見れば、一目瞭然であるが如く、他を認めないのである。

 この言葉は、日本の高祖高宗、天照大神の御意志である。何度も言うが、大和魂とは、大いなる和の心なのであるから。

 

 さて、東大教授の高橋哲哉なる人が、学者とは思えない、いや、学者だから言えるのか、こんなことを言う。

 「細かい文言の違いはやがて吹き飛ぶ。国を愛するとい言葉が入る以上、影響は計り知れない」

 つまり、国を愛するという表現に危機感を抱いているのである。

 それは愛国心と同じではないかということであろう。

 何故、国を愛すると掲げて駄目なのか、理解に苦しむ。つづけて、もっと理解に苦しむことを言う。

 「たとえ愛国心を持たない人でも、尊重されるのが憲法の原則。基本法の教育の目的として法制化することで、子供たちや教員たちの思想、良心の自由が侵される」と懸念を示したという。

 この人は、日本人なのであろうか。私に言わせれば、狂っているか、日本を崩壊させるべく、どこからかの回し者ではないかと思える。

 憲法の原則は理解する。しかし、思想や良心の自由が侵されるとは、どういう意味か。国を愛する心が、何故、思想や良心を侵すのか。まして教育である。教育とは何かを、東大にいながら知らないということである。教育とは、強制である。

 人は、育ち、環境、教育、習慣によって、柔らかい強制を受けて自我を創造する。

 何をアホなことを言うのであろうか。

 平たく言えば、国は、責任を果たせ、我らは自由にやる。国は、我らを守れ、しかし、我らは国を守らぬ。国は、我らに自由を与えよ、しかし、我らは国に縛られる何物もないのである。このように好きなことを言えるということである。勿論、このアホな先生も言論の自由により、好き勝手なことを言う。法制化することに懸念があるということは、法の下で、いずれまた、国の強制があるかもしれないということであろう。考え過ぎか、不安症なのであろうか。それとも、学者にある、屁理屈屋なのであろうか。

 もっとも驚いたことは、この後の言葉である。

 「何が伝統であると誰が決めるのか」と言う。

 私は呆れた。この人は、日本人ではない。

 学者にして、こうなのである。伝統とは何か、誰がそれを決める。馬鹿馬鹿しくて話しにならない。何故、こんなアホの言葉を新聞が載せるのか解らない。

 この先生はテレビに出ているらしい。つまり有名なのだろう。

 こんなアホな学者の話を、そうだそうだと聞いているとしたなら、本当に日本は崩壊する。

 伝統は、万葉集であろう。

 誰が決める。誰も決めない。万葉集は、厳然としてある。

 伝統とは、言葉の世界である。そこから発するあらゆる芸術芸能、技芸のことである。

 日本は日本語によって成り立つ国である。伝統とは、日本語である。

 何が伝統である誰が決めるのかとは、仰天する無知さである。

 この人は、何を学んでいるのだろうか。

 日本から、好きな国へ移住すべきである。そこでも、同じことを言うべきである。

 アラブに行けば、殺される。

 北朝鮮に行けば、殺される。

 中国に行けば、政治犯として終身刑務所である。

 ロシアに行けば、マフィアに殺される。

 もっと言ってもいいが、止める。

 

 ついでに日教組である。あのアホの軍団である。

 「愛国心や郷土愛を法で規制することは、個人の内面や心を縛ることになり、近代法の原則から逸脱する。国民的合意を得るため、もっと広く議論すべきだ」

 広く議論することは必要であるが、法で規制することが、何故、個人の心を縛るのか。誰も、個人の心など見えないではないか。こういう時に、心を持ち出す。心のありかを知らない無知さゆえであろう。

 そして、笑うのは、近代法の原則に反するとは、一体、何のことか。近代法とは何か。誰がそんなものを言うのか。欧米の野蛮な思想を持って言うものなのか。

 一体、彼らは、何を持って教育するというのであろう。

 何度も言う。教育とは、強制である。

 強制を捨てて、このていたらくになったではないか、学校、教育が。馬鹿馬鹿しくて話しにならない。それが、先生の組合だと言うから、終わっている。何故、先生になるのか。生計を立てるべく先生をしているのであろう。それとも、無給で、ボランティアで先生をしているのか。それを聞きたい。

 たかが、自分の生活を養うために、教員になっている者が、何を偉そうなことを言うのか。志があって教師になっている者とは思えないのである。

 はいはいと、頷いても、それに従わなければ、法も何も無い。心は見えない。

 問題は何か。法制化しなければなにない程、日本人が、日本がおかしくなったということである。つまり、そんな当たり前のことを法制化するという、悲劇である。

 愛国心を持つのは当たり前である。中には、偏屈な者がいて、そっぽを向いても、何かあれば、国に助けを求める。それでも、法制化する程のことではなかった。

 今、国を愛するということを法制化するという時代、事態を、憂いに憂いでいる、私である。

 こんな時代に誰がした。

 

 霊学から言う。

 いずれ日本という国は無くなる。千年も持つかどうかである。

 日本の大和魂は、世界の中に散らばり生き続けて、平和を希求する人によって保たれる。 昔、大昔、日本という平和を希求する、平和の神を奉じていた国がある。しかし、今は滅びて、その子孫は、世界に散らばり、生き続けている。もしや、私が、その血を継いでいるのかもしれないと言う人が、世界に現れる。 

 

 人間とか、悲しき愚かな者である。

 百年の満たずに死ぬ。

 大切な時間を無為なことのために生きる。

 家族を愛し、人を愛し、古里を愛し、そして国を愛して生きることくらいが精々である。しかし、それもままならないのであれば、何を持って生きるというのであろか。

 無益な議論は、御免だ。

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