時事放談22 2006/9/16
木村天山
男の子たちが、奇麗に、美しくなってきた。そして、女にそれ程に、興味を示さない。それは大変に良いことである。
女にとっては、受難の時期であろう。それも、よいことである。
自我意識が自己愛となり、それが美意識を生むとは、たいしたものである。今、世の中は、実は殺伐としている。それについては、別に書く。
そんな中で、男の子の美しさが、一瞬の清涼剤になる。女が、どれ程、美しくしても、限界がある。男の美しさの比ではない。男は本来美しいものである。
では、彼らは、皆、ゲイ、同性愛であるのかと、アホは思うが、そんな問題ではない。生きにくい世の中を生きる知恵である。
美意識を持って生きるとは、室町期の大名たちを見よと言う。彼らは、芸能に秀で、江戸元禄とは違う、粋を見いだした。
バサラとよばれた、当時の大名の美意識は、見事であった。いけばなや茶の湯が、彼らによって開花する。
建築も、男の美学であった。いま、その頃のものを伝統文化と呼ぶ。まだまだ、伝統に至っていないが、私は反対しない。
民族の伝統とは、誰もが平等に、無償で手に入れられて伝統と言う。万葉集である。これは、伝統と呼べる。
さて、男の子の美しさで救われることが多々ある。
女の色香に迷い、人生を棒に振ることが少なくなる。今の女は、男の志を理解出来ない。それは、男の身勝手だと思う程女の意識が低い。
男を物として扱う程度の女に、男を愛させてなるものか。
女は、男より、一段低い地位にいて、成り立つ。と言うと、封建的云々と、アホは言うであろう。男を立てるのは、何もペニスばかりではない。男の意志を立てるのである。
いや、女も立てるとうであろう、立てばよい。どんどん女も立ってゆけばよい。そして女の自由を謳歌するがよい。そして、子供は精子バンクから買い、自分だけの子供を生めばよい。女は、好きにするとよい。誰も批判はしない。
女は勝手に生きてよし。
そして男である。志に生きる。生きたい生き方を追求する。
子孫などいらない。子孫に、思いを託すことなく、この一代で終わると覚悟すれば、出来ないと思われることも出来る。
美しい男が、愛し合い、強力して、志を生きれば、女に愛されて成ることよりも、もっと素晴らしい。男と男は、子供のみ生めないだけで、後は、すべてを生むことが出来る。それも、女と共に成すことより、数段優れる。
こうは言っても、命懸けで、男同士が愛し合うことは、至難の業である。通常のアホには出来ない。
つまり、男同士の愛も才能であるということである。
男を愛せないような男を、女が愛して、どうする。そんなものは、捨てるが勝ちである。男を愛せる男を愛して、女の価値がある。
さあ、私の言うことが、理解出来るであろうか。
女は、頭が悪いゆえ、理解出来ないばずである。
女の時代は、終わったのである。
女同士で、アホ馬鹿を生きるがいい。精々、お金を貯めて、精子バンクから、優秀な精子を買い、一人で子供を生み育てて生きればよい。
そして生んだ子供を愛して、我が内に飼い、母子共に、ずれた人生を送るがよい。
誰も批判はしない。非難もしない。
要するに、誰も相手にしないということである。
熟年離婚が大流行となる。
何故か、男がアホだったからである。男曰く、それでは女は狡いと。それを言うなら、女を何と心得ていたのか、問うことである。
セックス付き賄いか何かと思っていたのであろう。徳川家康のように、女の腹は借り腹とでも思っていたのか。徳川家康にして言える言葉であり、仕事をしている振りをして生きている者の言う言葉ではない。
社会は、男の高齢者の世話で、とんでもないことになる。
兎に角、何も出来ないのである。仕事に似たことをやることが生きることだとしか思えないのであるから、すでに終わっている。
以下省略する。