時事放談 24 2006/9/18

木村天山

 書くことを、考え続けていた問題を書くことにする。

 「君が代神経症」についてである。

 06年3月23日25日の、東京新聞の、こちら特報部を読んだ。

 前置きである。

 公立学校の教員で病気休暇、とりわけ極度のストレスなど精神疾患が増えている。背景として卒業、入学式の「日の丸・君が代」強制が見過ごせない。東京都をはじめ、君が代斉唱を強制する教育行政が、教員らの精神をむしばんでいる側面もある。

 と、書かれている。

 ここ数年、都立学校の卒業、入学式で、子供たちに君が代斉唱を強制するのはおかしいと考えて、国歌斉唱時に不起立を選んだ教員300人以上が、職務命令違反などとして処分されてきた。

 「君が代は好きだが、教育に強制はなじまない」と、不起立教員の一人が言う。

 思想、信条や良心にまで踏み込んで、強制するのはおかしいという考えだという。

 こうした息苦しさを増す教育現場が、教員らの精神にどう影響するのかということが、テーマである。

 ある元教諭が、元の学校の卒業式の来賓に招かれて、君が代斉唱強制に反対し、父兄らに着席を呼びかける、日の丸・君が代強制を取り上げた週刊誌のコピーを配ったという。それが裁判ざたになっているという。

 

 強制の痛みは、のどから太い杭を打たれたようと、新聞の見出しにある。

 さて、私は、一般国民として、どうそれを考えるのか。

 公立学校の、日の丸・君が代斉唱反対ならば、教師を辞めるべきである。

 思想、信条、良心に踏み込むというが、一体誰が、そんなことが出来るだろうか。

 子供たちに、判断する何物もない。子供たちは、学び、習うという、教育の強制を受けているのである。教育とは、そもそも強制の別名であろう。何をアホなことを言うのであろう。

 再度言う。教育とは、柔らかな強制である。

 思想も信条も、良心の有り様さえも知らない子供たちに、何を、判断させるというのだろうか。

 教師は、公人の立場にある。学校、特に、公立学校ならば、当然、それを善しとするはずである。嫌なら、私立学校の先生になればよい。

 礼儀作法を、強制して教えなければ、一体、何を教えるというのだろうか。

 日の丸・君が代斉唱は、礼儀作法である。

 それは、他国へ行けば解る。その国の、国旗や国歌の斉唱される時に、少なくても、敬意を払う気配りと、礼儀作法を教えないで、何を教えるというのか。

  

 即刻、教師を辞めるべきである。

 志あって教師になっているのではない。生活のために、教師になっているのであろう。志があれば、国旗や国歌を、どうのように扱うのかということを、知るはずである。

 まして、鎖国の時代ではない。多くの国の人々と付き合うことになるであろう、子供たちに、国としての最低の教育は、日の丸掲揚、君が代斉唱であろう。

 

 それで「君が代神経症」になるならば、即刻、教師を辞めて私立学校へ転職するか、転業するべきである。

 強制を恐れるというが、恐れは、つまり裏を返せば、別の強制を伴うということを知らない。反対を強制されるということである。

 大人が、子供を迷わせて、どうする。

 国際的視野に立てば、当然のことである。

 彼の国に行き、彼の国の国歌を聞き、国旗掲揚の際に、それなりの敬意を払わなければ、殺されても文句を言えない。

 どうであろう。そうであろう。

 一体、何を考えているのか。

 自由と平等と博愛などという妄想に始終して、一番大切なことを忘れた。

 今、どこの国の住み、どこの国の世話になっているのか。

 海外に出てみよ。そこで、私たちは、日本人として認知される。事件や事故があった場合は、国が責任を取るのである。

 自分の思想、信条、良心は認めるが、国の有り様は認めないとは、これは如何なることか。義務教育とは、強制であろう。

 義務とは、どんな意味があるのか。

 教師たちの、良心を見詰めたい。

 どんどん国に強制を受けて、また太平洋戦争時の二の前になると考えるとしたならば、妄想症である。

 国民は進化している。

 今、戦争をすると言えば、国民はすべて日本から離れるだろう。

 誰一人、日本のために戦うなどという者などいない。

 すでに、日本という国は、崩壊しているからである。戦争をするとしたなら、戦争のために、軍人を他国から雇うことになるのである。

 おわかりか、教師の皆々様。日本は崩壊しているのですよ。

 そう、教師というお馬鹿のせいで・・・

 何も病気になるまで、教師を続けて欲しいと誰も言っていないと思うが。

 国から、三顧の礼を受けて、教師になっている人は、いますか。いないでしょう。生活のために、教師になっているのでしょう。

 以下省略。

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