時事放談 27 2006/9/21
木村天山
日本は実に平和な国である。
北朝鮮が、1000基もミサイルを向けていようが、中国が核兵器を向けていようが、ロシアが、また核兵器を1000基、向けていようが平和である。
自殺者が3万人を越えても、格差社会が到来しょうが、平和である。
金持ちと言っても、親の金を譲り受けて、金持ちと言っているのであるから、アホであろう。そして金持ちがアホだから、また終わっている。
有意義に金を使えないというアホである。
実に、平和である。
ロマネコンティという100万円のワインを飲む者がいるが、アラブの金持ちは、それ以上のワインを買い占めている。
金持ちの世界から見れば、糞のようなものである。
日本にもテロが起こるであろうか。もし起こっても、過ぎてしまうば、また平和を取り戻すであろう。
さて、私は何が言いたいのか。
イラクの内戦である。
アメリカ国防省の発表で、内戦の危機ありと報告された。
イラクの内戦である。誰と誰のか。同じイスラム教徒同士である。つまり宗派の争いである。日本人ならば、信じられないの一言。
無差別大量殺人の被害に遭わないのである。これは平和である。
世界は、至るところで、そういうテロや、内戦が行われている。
日本にも一時期、そういう時代があった。戦国時代である。ほんの僅かな時代である。それを思い出すとよい。
危機意識とは、命が掛かる時に言う。
命を取られるか否かの時に、危機意識という、意識が生まれる。通常の時の危機意識は、危機でも何でもない。ただの心配性程度である。
イラクの宗派争いは、日本人が理解するには、難しい。念仏宗と題目宗の争いではない。 内戦にまで発展するという仰天である。
同じものから出たものが、あれだけ反目するということが不思議だ。
しかし、ユダヤの神から出た、キリスト教、イスラム教と、戦うことが好きである。同じキリスト教でも、カトリックとプロテスタントは、アイルランドで、今も反目する。
余程、戦いが好きな人種なのであろう。出来れば、かかわらないでいるのが一番であるが、国際問題となると、日本も、係わらざるを得ない。
大陸は、兎に角、宗教と民族の対立が激しい。
インドでは、イスラムとヒンドゥーの対立、そしてパキスタン等では、シーク教徒である。皆々、対立する。インドネシアでも、イスラムと、キリスト教の対立で、島が二つに分かれる程である。
日本人が考える宗教と、彼らが考える宗教の感覚が違うと解る。
彼らは、異教徒を殺すことを、何の罪悪感もなくする。イスラム原理主義になると、手が付けられない。話の仕様がない。
生きることは、信仰であり、信仰は戦いである。日本の国の多くの人が、生きることは自己実現であると考えているようなことはない。
兎に角、戦いである。心の休まる暇が無い。死んでも、神の国に入ると信じるから、死を恐れない。
教えと、信仰とは、恐ろしいものである。
この世に、何一つ絶対的なものは無いと言っても、彼らには無駄である。
唯一絶対の神アラーがいる。アラーこそ、神である。
彼らと話をするには、一旦、アラーの神に祈りを捧げなければならない。今、日本人で、そのようなポーズを取れる者がいるか。
国旗も国家も自由にせよと言う者共である。
彼の地に行き、彼らの神に敬意を払わなければ、殺されても文句は言えない。
狂信、盲信の彼らと話すには、彼らの歴史を学ぶことである。何故、アラーの神を奉るのかを、よくよく考えることであろう。
シルクロードの仏教国が、軒並み、イスラムに改宗するという事態も、何か訳がある。白黒つける方が、理解し安い。異教徒であると断定すれば、事は簡単である。殺せばよいのだ。
さて、どうするか・・・