時事放談 28 2006/9/23

木村天山

 私が今歌わなければ、自殺する。

 そう書いて、ようやく、納得しました。健闘を祈ります。と、返事があった。

 単なる、興味以外のなにものでもない質問である。皆が、知りたいと言う。その皆とは、誰なのか、私は知らない。皆と言えば、全員と言うであろうか。堂々と、皆と言う。

 世の中は、この程度の人で成っている。

 

 プロデューサーが何故歌うのかという問いである。

 何か、遺志や意味があるのかと。

 コンサートに一度も来る事なくである。藤岡の掲示板でなければ、無視するが、少なくとも、私には神聖な藤岡の掲示板であるから、答えた。

 

 もし、私が、質問するならば、こう書く。

 私は、木村天山です。どうしても、あなたが歌われるということに疑問があります。今まで、プロデューサーとは、影の存在であるという意識が強く、理解できないのです。

 答えらる範囲で結構です。お答えください。と。

 匿名で、しかも、言いたくないことまで言わせての、興味とは何か。

 最後の健闘を祈るとは、何事か。失礼である。しかし、その人は、それを失礼と感じない程、感覚が麻痺している。

 そう、世の中の興味という気分にである。

 マスコミは、その世の中の人の興味を引き出し、低俗で下らない興味を追いかけて、番組を作る。そして、それを見て、人は笑う。自分の顔を見て、笑えといいたいが、自分の顔を見て笑うことはしない。

 こうして、日本中は、アホ馬鹿間抜けで一杯になり、万事休すとなる。

 すべての、問題は、ここから発生している。

 一度も、私が歌うコンサートに来ることなくというところが、問題である。

 質問者は、批判でも揶揄でも無いと言うが、それより甚だしい、ゲスな興味である。

 最低限、それでは、次回のコンサートに伺いますであろう。健闘を祈るとは、何事であるか。お前は、何様かと言いたくなるのである。

 しかし、質問の本人は、そういう常識も、持ち合わせていないであろう。こういう世の中の人と、付き合うということは、甚だしくストレスになる。

 だが、私は、それを承知でコンサートを開催している。致し方ないのである。

 

 兎に角、言論の自由である。何を言っても良い。この自由を得るということが、如何なることであるかを知らない。自由を得るというとと、責任を得るということは、同じである。今、匿名として、多くの人が書き込みをする。

 私のように、正々堂々との書き込みをしない。それで、果たして自由か。

 言い放し、言論を捨て放していることを知らない。責任の所在をつかめない。それで、答えろというのは、暴力である。

 何も、テロばかりが暴力ではない。

 人には、それ以上を言わせてはいけない、礼儀がある。礼節がある。それを無視してでもこの世に、人に、聞きたいことがあるのか。健闘を祈りますという程度の、捨て台詞である。

 私は、あなたは、死んで一度やり直せと言った。

 それでも、解らないようだから、万事休すである。

 質問をしたことの、責任を取らないのである。いや、責任すら感じない。または、それも知らない。

 それでは、どのように責任を取るか。

 まず、私のコンサートに来て、聴くことである。そして、伺いました。そして、歌わなければ、自殺するというお答えに、行動を持ってする。それが、礼儀作法である。

 

 多くの掲示板等々があり、勝手に匿名で書く。

 自由と平等という思想を勝ち取った者たちは、命を賭けて、それを勝ち取った。そして今、その享受を受けている。

 この平和が、太平洋戦争で、亡くなった多くの戦死者たちによるものであることも、単なる言葉のみになっているのは、そういうことだ。

 匿名での書き込みが、テロと同じ、暴力であることを言う。

 正々堂々と、名前入りで、書き込みしなければ、それは無視していいものである。

 自由と平等は、そんな、やわな思想ではない。命を賭けるものである。

 以下省略。

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