時事放談37 2006/10/7
木村天山
現代の、自制心が利かないということを象徴する記事が二つあった。
一つは、自動車各社が、飲んだら動かない車を開発するという。
飲酒運転が頻発することからのアイディアである。
日産は、アルコールを検知するとエンジンが動かなくなる車の開発を検討し、トヨタも研究に着手しているという。
ストローのような装置に息を吹きかけてアルコールを検知すれば、エンジンが始動しない。長い暗証番号を入力しなければ、動かないというもの。欧米での導入事例を参考に検討するとある。
欧米人ならば、自制心が利かないということが解るが、何故、日本人に自制心が失われたのか。
そして、もう一つは、2005年度に公立小学校で発生した校内暴力が、二千件を突破したというものである。
三年連続で、増加した。
このうち、教師への暴力が前年度より37%増の464件である。
加害児童数は、1919人である。
教師への暴力行為を起こした児童は、259人。発生件数より少なく、同じ児童が繰り返し行っているという。
児童間の暴力は、1713件。中学生への行為は、57件。器物損壊が582件である。
いかがであろうか。この二つの記事に共通する問題は、自制心の自制である。
酒を飲めば、自制心が薄れる。大丈夫だと思う。そして、終に事故を起こし、殺傷させる。後悔は先に立たず。
子供の問題は、大人の問題の写しである。
小学生というと、6歳から11歳である。その親の年齢は、20代後半から30代、40代である。要するに、親の世代に自制心がない。当然、その子供たちも自制心か無くなる。
正に、子供は大人を写す。
親の世代を育てたのは、今の高齢者たちである。捨てられるはずである。
その高齢者たちは、戦争体験者、終戦体験者であろう。特に戦後の混乱期を生きた。それが、この体たらくである。何故か。食うに困ると、教育が疎かになり、伝えるものを持てなかったということである。伝えるものを持たなかったということは、死に体となって生きたということである。しかし、私は彼らを責めない。
戦争により断絶された世代である。それは悲劇を生んだ。その証拠が、現在の状態である。
親の世話も出来ない子供に成長し、子供に教えられるものも無い。悲劇である。
そして、親を捨て、いずれ自分も捨てられる。
フィリピンから介護士を輸入する。老人介護のためである。終にというか、想像はしていたが、東南アジアから、老人介護者を招くということは、日本社会では、もう限界にきているということである。
特別養護老人ホームは、どこも満杯である。順番待ちをしている間に、死んでしまう。老人病院を三カ月ごとに、たらい回しにされて、その間に死ぬ。
それに、これから拍車がかかる。
悲劇を、これから目の当たりにする。
そして、今の親が老人になった時、子供たちに殺される。
いずれ、記事には、子供たちに殺される親の事件と、東南アジアから来た介護士に虐待される老人の事件が多くなる。
東南アジアの人々にしたことの報いをそこで受けるのである。
これ、皆、自業自得、因果応報である。
親の報いを子が受けて、そして孫が受ける。
因縁を忘れた現代人は、かくも悲しい定めを負う。
昔の人は、遠くにいる親戚、親類に出来ない替わりに、近くの他人に親切にした。遠くにいる子供に出来ない替わりに、近くにいる他人でも、子供の年齢の者に、親切にして接した。そして、それが循環して、社会は、ゆるやかに心大きく動いていた。
人の痛みが自分の痛みとなった。
日本人は、素晴らしい生き方の所作を持っていた。
それが今では・・・
金持ちも節度なく、貧乏人も節度なく。矜持を失った。何のか。日本人であるという矜持である。
大昔「それでも日本人か」と人を叱ったと言う。素晴らしい時代があった。