時事放談38 2006/10/7
木村天山
日本人には、とうてい理解出来ない話である。
イラクのイスラム過激派2組織が、9月17日、イスラム教を批判したとされるローマ法王の発言を受け、バチカンへの報復を宣言する声明をネット上に掲載したという。
イラク聖戦戦士同盟を名乗る組織は、キリスト教徒とユダヤ教徒への復讐を呼びかけたという。
また、イラクのイスラム過激派、ムジヤヒディン軍も、16,17日と、声明をネット上に掲載した。
同じ神を奉じる宗教の三つ巴の戦いである。
ローマ法王ベネディクト16世は、聖戦批判発言について、直接謝罪したが、法王の発言をイスラムへの攻撃とみなしたイスラム教徒の一部には、反発がくすぶっている。
法王の発言は、ビザンチン帝国、マヌエル2世パレオロゴス皇帝が、1391年にペルシャ人と交わした対話録を読んだという。
曰く、皇帝は「ムハンマドがもたらしたものを見せてみよ。彼が説く信仰を剣で広めたような邪悪と残酷さだけだ」と語る。
法王は、「暴力は神や精神の本質と相いれない」と説明した。
続けて「神は血を喜ばず、非理性的な行為は神の本質に反する。信仰は肉体ではなく、精神に宿るものだ。信仰に導くものは誰であれ、暴力や脅しによるのではなく、適切に論じることが求められる」と。
法王の発言は、実に真っ当である。
歴史を鑑みれば、ウソを言うと思うが、歴史の反省に立って言うのであれば、納得する。一時期、カトリック教会も、今のイスラム原理主義者と同じようなことをしたのであるから。
問題は、発言や謝罪の言葉云々ではない。
イスラム原理主義者たちは、兎も角、戦いをしたい。争いたいのである。それの理由が欲しいのである。
彼らの、アイディンティティは、戦いなのである。
その思考パターンから抜けられないでいる。
これが、日本人なら、最終的に戦いまで極まると、まあまあ、同じ神を奉じている者同士ではないか。話し合おう、共に食そうということになる。
三つ巴になると、一つは、必ず、二人の仲裁に入るのである。これは、日本人の特性である。そして、事をうまく曖昧にして、たゆたう気分にして、平和的に解決しょうとする。 それを持って、日本人は、駄目だ、世界に通用しない等々、言い立てる者がいるが、一番平和的解決法を有している。
何故なら、この世は、厳密にとか、絶対というものは無いのであり、それを白黒はっきりさせるという方が、無理であることを知っている。
成熟した大人は、そうして、曖昧に、たゆたって、関係を作るのである。
彼らには、それが出来ない。アラーは絶対である。いや、こちらが絶対的である等々、いずれも一点も譲ることが出来ない。
悲劇であろう。そして、相手を殺して満足するという、実に低レベルな思考法で、行動する。
彼らが、結局望むことは、イスラム教徒のみ、世界にいることである。
それは多くの一神教に言える。非寛容、排他的である。
宗教の最大の問題は、それである。
そしてそれは、誤っている。
この世に、そして霊界にも、絶対的なものは無い。ある訳が無い。
主イエスキリストも言う。地に誓ってはならない。そこは、神の足台である。天に誓ってもならない。そこは、神の国である。
相対である人間が、絶対を誓ってはいけないのである。
そんなものは無い。
兎も角、話し合いの出来ない彼らを、静まらせるためには、彼らの精神を支配する者に、思念を送る事である。祈りは、聞き入れられる。