時事放談43 2006/10/12

木村天山

 初公判から10年を経て、9月15日、オウム教祖麻原の死刑が確定した。

 このことについて言うべきことは無い。

 

 私は、いまだに、彼を教祖として崇める信者がいることと、彼に理系のエリートが何故従ったのかということを、考える。

 極悪非道なことをやっても、宗教とは、その信者とは、実に不思議な感覚を持つ者である。例えば、キリスト教徒は、信仰を否定される、神を否定されれば、戦うこともいとわないという。そして、多くの民族を皆殺しにしてきた。イスラムしかり、その他、多くの宗教がそうである。今も、麻原を崇める信者がいるということも、そういう意味では、不思議ではない。

 ようやく日本も、欧米並の宗教感覚を持ってきたのであろうかと思うのみ。

 

 彼の教義等については、何も言わない。ただし、何故、理系のエリートが、彼を信じたのか。何を信じたのか。それが不思議である。

 本当に、悟るとか、超能力を得ると思っていたのであろうか。きっと、信じたのであろう。しかし、それは、現実には起こらなかった。しかし、科学的策略では、起こすことが出来た。それを、教祖ありと思い込む、教祖の力、つまり、教祖の演技力であろう。

 この事件の合間にも、多くの教祖が、裁判で有罪になり、呆れ果てたものである。

 足裏を見る教祖の天の声を信じて、多くのお金を取られた者等々。反吐が出るような、低俗、俗悪、低レベルの宗教感覚での行為、行動である。

 

 毎日新聞、専門編集委員の牧太郎さんの、文章が載っていた。

 「何がオウムの大量殺人を許したのか。自分の頭で考えることなくキャッチコピーに躍らされる現代人。そしてその知的基礎体力の低下に最大の原因があったと僕は思う」とある。

 全く、同感である。私は、それに加えて言う。

 伝統教育である。それが全く無い。つまり世代間の共通項がないのである。

 宗教に対する姿勢等々、皆、それは伝統教育からのものである。伝統教育とは、お家の教育といってよい。お家の伝統である。

 日本の宗教観は、極悪非道の宗教観ではない。八百万神を認める、非常に寛容で、柔順な神に対する姿勢を持っていた。

 他を排斥して人を殺すような宗教観は無い。戦争をしてまで、教義を他に押し付けるという宗教観は無い。

 特別な能力を必要としない、神への道、生きるという延長上にある、神へと続く道を知っていた民族である。それを、伝えることの無くなった時代である。

 神に対する礼儀作法は、牧氏の言う、知的基礎体力であろう。それが、日本にはあったのである。それを、失ったが故に、理系エリートたちが、勘違いして、教祖のキャッチコピーを信じた。そして、教祖と共に、狂いに身を任せたと言える。

 霊学から言う。

 オウムの信奉していた、シバ神はインド魔界の神である。そのインド魔界は、中国を経て、ロシアにも届いている。ロシアでのオウムの布教が盛んであったとは、頷ける。

 あれが続くと、ロシアから中国に南下したであろう。そしてインドに到達した。

 シバ神は破壊の神と言われる。現に、破壊に関するものは、シバに続くものである。そして再生と言われるが、シバ神は、再生などしない。破壊したままである。

 そのシバ神の眷属たちが、オウムに群がったとみる。インド魔界の神々である。

 結局、仏陀の慈悲の思想である仏法も、インド魔界に飲み込まれて、インドでの仏教は無に等しい。

 悟りという言葉は、仏教用語であり、多くは、妄想を言う。仏陀は、一切そのようなことを言っていない。悟りを得て仏になるのではない。この人生を生きて、いかに生きるかで、仏の世界に行くのであるということを教えた。そのための心の在り方を説いたのである。それを、牧氏の言葉で言えば、知的基礎体力である。

 サティアンという修行に似た施設があったが、宗教とは団体を持って信者に安心を与えるという、良い見本である。

 信仰とは、個人の極めて情緒的な行為である。それを、団体をもってするということが、まず、怪しいのである。それは他の宗教も同じである。

 様々な宗教団体の問題点を凝縮したものがオウムであった。つまり、法に触れないが、宗教団体というものは、皆、オウムに似るのである。

 人が集えば安心するという、人の心理を手玉に取り、宗教団体の多くは、そのようなことをする。するとお金も集まる。そうして、巨大化させて、益々、安心させるが、天の国、仏の国は、益々、遠のくのである。

 ちなみに、宗教団体が作る霊界は、あまりに騒がしく、乱雑で、二度と足を踏み込みたくない場所である。

 

 次元の高いところからの霊的能力については、別の機会に書くことにする。

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