時事放談44 2006/10/12

木村天山

 何度書いても、言っても、まだ解らぬ馬鹿がいるので、再度、書くことにする。

 

 藤岡宣男の命(みこと)と言うと、藤岡を神格化しているという馬鹿である。

 日本の伝統的言い方である。

 神とは、尊称であり、様、殿と同じように考えてよい。神とは、頭も、守も、上も、カミと言う。

 欧米の極悪非道の神という概念も、観念も、日本には無い。

 何故、欧米の思想、宗教観を持って、考えるようになったのか。皆々、アホな学者と言われる者共のせいである。

 欧米の神は、旧約聖書による。

 その神は、契約の神と言われる。

 神に契約があるという、仰天である。単なる、人霊が神と名乗っているだけのことである。それを、唯一、絶対の神として崇めるという仰天である。

 ユダヤ教、イスラム教、キリスト教が、そこから出た。見よ、彼らの、極悪非道振りを。それを無視して、日本人が、クリスチャンである等々言うのは、片腹痛いのである。

 信仰の自由が保証されているから、信仰するのは構わないが、日本の神と、極悪非道な神概念、観念を持って、日本の神を理解することなかれ。

 

 この宇宙に唯一、絶対な神という存在は無い。在る訳が無い。

 日本の神々は、皆、天地自然の働き、また、この世に生きた者を、尊称して神と呼び、貴ぶのである。

 誰も、それを言わないのが不思議でしょうがない。日本は神の国であるというのは、そういうことである。神と言われるような、人の尊敬を受ける人がいたということである。

 学者等、下手な研究家が、日本の神々の云々を言い、精霊信仰等々言うのは勝手だが、そにな小さなところのものではない。日本人が神というのは、天地自然の、すべての働きを神と観て、それに名をつけたのである。

 だから、あらゆる神がある。

 それは、仏教も、儒教も、道教も、そして、諸々の宗教の神も認めていることから、唯一、絶対の神は無いということを知っているからである。

 

 まして、仏教の言う悟りによって仏になるという考え方も無い、一時期、本地垂迹という考え方を持って、仏教と神道混合の思想が出来たというが、実は、仏教が輸入されるまで、神道という言葉もなかった。

 唯神(かんながら)つまり、唯、神の道、神への道だけがあった。

 神と言われるような生き方を目指して生きた。

 それは、正解である。

 神の国、天の国、天国があるという妄想など、日本には無かった。まして、仏教の一部の教えが輸入されて、極楽浄土という妄想が言われるまで、そんな妄想を持つこともなかった。

 仏になるということ自体、妄想である。仏とは、何か。人間の進化したものか。すべてに仏が宿るという思想は、仏陀以後の思想であり、仏教とは、仏陀とは何の関係もないものである。仏陀が、一言も言わないことを持って、仏教を創作したのである。

 経典に根拠は一切無い。

 貴い経典であるとは、人間が勝手に言うことで、仏陀は一言も言わない。

 実に、仏教とは、詐欺的信仰を勧めるものである。

 無いものを在るとは、一体、いかなることか。

 経典に書かれてあることが、嘘八百であることを、何故悟らないのか、不思議である。

 教団、組織の繁栄のためであろう。

 確かに、経典の言霊によって、霊を動かすことはあるが、動かすことだけであり、それは手品に似る。

 霊力を持ってというが、単なる妄想である。妄想は現実を創造する。

 しかし、妄想の現実は、妄想であるから、事実、真実ではない。

 この世に、絶対という言葉は無い。あるのは、人間の存在について絶対なのであり、それは神や仏のことではない。つまり、神や仏というものは、人間が勝手に創作したものである。しかし、それを持って、共産主義者のように、宗教は害毒であるとは言わない。

 

 最も大切なことは、次元の段階があるということを知ることである。それを悟るというならば、理解する。それと、悟りで仏になるとは、全く話が違う。

 人は、悟り続けて生きる者であり、悟り切るということは、在り得ない。

 仏陀は宇宙の真理の法を見いだして、即座に死を決意した。

 そして自害して良かった。しかし、魔界の神、ブラフマンが仏陀に、その会得した宇宙の真理を伝えるようにと促す。ここから、過ちが始まった。それは、一人一人が気づくことである。仏陀が教えることで、混乱をきたすことを知っての、魔神の勧めである。

 その通り、世界は、混乱に陥った。

 それでも、仏陀は、慈悲の思想を、心の在り方として伝え、すべては心の在り方で決まるということを、身をもって示した。

 だが、極悪非道な宗教によって、その思想は、皆、壊滅させられた。

 一時期の仏教国は、すべて、イスラム、ヒンドゥー等々に飲み込まれたのである。

 魔界の勝ちである。

 そして、日本の仏教である。日本の仏教のどころにも仏法なるものはない。

 大乗仏教という自体が、ウソである。魔界の関与を受けて成り立ったものである。それは、仏教史の、大乗の誕生を学べば解る。インド魔界が関与して、益々迷いの思想を作り上げた。それを学んで、仏教であるとは、あまりに哀れである。

 

 南無阿弥陀仏と言うが、阿弥陀仏に帰依するという。しかし、阿弥陀仏は、観念である。観念に帰依して、どうするのか。

 そして南無妙法蓮華経である。法蓮華経は、経典である。経典に帰依して、どうする。

 帰依するのならば、南無仏陀であろう。

 観念や、経典に帰依するという、実に変形した信仰を持っての宗教とは、何か。

 そろそろ目覚めることである。それで得た救いなるものは、単に、現実的利益であろう。 観音様、摩利支天、毘沙門天、等々、皆々、観念の産物であり、もしくは、インド魔界の神と呼ばれるものである。

 ゆめゆめ、宗教の妄想の中には入らないように。

 

 欧米の宗教学というものを持って、日本の宗教を計ることなかれ。また、日本には、欧米で言うところの宗教は無い。

 日本には、天地自然の共生と共感の生き方を勧めるものしかない。

 唯一、絶対の神も仏もない。

 在るのは、たた風が吹くのみである。

 天地に風が吹く。これが、古神道(いにしえの、かんながらの道)の心である。

 私は、それ以外の生き方を勧めることは出来ない。

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