時事放談46 2006/10/22
木村天山
哀れである。
携帯電話である。
あらゆるものを破壊する。これを製作している人は、狂っているとしか思えない。
私は、携帯電話を持たなかった。しかし、周囲の者が、必要性を説き、私も仕事柄必要と思い、無料の携帯電話を貰った。
そして、化石だと言われる程、最初の携帯電話を使っていた。ただ、受ける、掛けるだけである。
そのうちに、あれよあれよと、携帯に多機能がつき、今では、見事な写真まで撮れる。音楽も小説も、ニュースも見られる。
若者が、一人じっと歩道に腰掛けて、何をしているのかと思い近付くと、携帯で音楽を聴いている。電車に乗れば、メールを打つ。兎に角、黙っていない。
喫茶店で、私の横に座った若い女性は、トーストとコーヒーで、片手では携帯を操作していた。最後まで、そうしていた。
もう、この流れは止められない。今は、携帯で、買い物や支払いも出来る。
本当に、こんなことを進めていると、人間疎外、自己疎外どころではなく、人生疎外になってしまう。つまり、携帯が主人であり、それに使われるのである。
こうした機能を考え出している人がいる。
どこよりも、多機能を目指して、便利も合理性も考え尽くしてのアイディアなのであろう。その研究成果は、よく解った。
しかし、もうこれ以上になると、本当に、とんでもない怖いことになる。
横にいる人と、携帯で話すという異常事態である。すでに、そうなっているという。
だが、もう誰にも止められないのであろう。携帯電話を扱う会社は、家族皆が携帯を持つ時代であることを言う。
子供から、高齢者まで携帯の奴隷になる。
知らない人から写真を撮られたことがある。勝手に撮っている。しかし、始めは気づかなかった。
どこでも、写真を撮る。何でも撮る。どうするのであろうか。
すべてのことが、上辺だけで進む。何の深みも、高みも感じずに、進む。人生が、そうして出来上がる。私には、恐怖である。
山上の垂訓で、キリストが、野の花を見よ、空の鳥を見よと、説教をした。
空を見上げることも、野の花を見ることもなく、携帯でパシャパシャと写真を撮る様を想像して欲しい。狂っている。
浜辺に行っても、騒音があり、尚且つ、携帯で音楽を聴く。
これは精神疾患であろう。
潮騒に耳を傾けることもなく、携帯の音楽を聴くという仰天。そして、いつも携帯を見ている。小説を読む。情報を得る。そして、どうするのであろうか。
静止したまま、何事かをやっているというつもりであるならば、それは死に体である。すでに死んでいるのである。
生きながら死ぬとは、悟りの境地と言われたが、今、生きながら死んでいることを、悟りとは言わない。
24時間を携帯に支配されて過ごすということは、すべての時間を携帯に捧げて生きる。
文化も文明も吹っ飛ぶのである。
これを生きることの危機と感じなければ、先は無い。
携帯電話があって有益なことは、数多くあるが、それ以上に精神を侵食して、精神というものの無い、化け物を生み出すことであろう。
合理的、利便性という名の元に、人間が別物に変化してゆく。