時事放談49 2006/10/22
木村天山
人は、知っていることを知る。解っていることを解る。
知らないことは、何か。解らないことは何かと、私は、毎日、戦っている。
一冊の本を読むと、知ったことより、知らないことの多さを知る。
これは絶望に近い感覚である。
一体、私が理解し、知っていることは何であろうか。
ほんの少しの事。わずかな事。
それを思うと、自分の愚かさを知る。
そして毎日、書き付ける。
書くことで、知らないことを知る。
知れば知るほど、知ることに遠ざかる。もう一切の本を読まず、何も考えないようにして生活したいと思うこと多々あり。
一時期から、私は書店に入らないようにした。意識して、書店に近づかない。しかし、新聞を読む。広告欄に書籍の紹介がある。また、日曜版には、書籍の勧めがある。それを読むと、手当たり次第に、注文したくなる。それを、抑える気分といったらない。
これも、あれも、読みたいと。
一時期、六畳の部屋にいっぱい本を揃えていたことがあるが、それでも足りないのである。私は、大学にいってない。故に、すべて独学である。
兎に角、本を読み、同じ本を何度も読むことで、学んだ。そしてそれは正解だった。
私は頭が悪いから、30年前に理解できなかった本を、今にして理解する。
そして安堵する。しかし、その後、本当に理解しているのかと、問う。
それを解明するために、また、学ぶ。その繰り返しである。
昔、小説をよく読んだが、今は、ほとんど読まない。
どうしても読めと言われたら、夏目漱石か、川端康成を読む。
もう小説は後免なのである。あの迷いは、もういいと思う。作家は、迷いのただ中に連れ出す。
そして作家は、迷わせて、金を得ている。
学者の書いたものを読む。しかし、何故、このような難解な文になるのか、理解出来ないことが多々ある。
学者の文は嫌いだが、それを読まなければ、学べないこともある。
そして翻訳ものである。
人によって、全く違う。
多く哲学者の翻訳ものを読んだが、大半が理解に苦しんだ。
何故、もっと理解しやすいように翻訳出来ないのかと思ったが、元の文が難解であるということが解った。
そして日本語に、かなう言葉は無いと思い至った。
簡潔明瞭な日本語である。つまり、説明尽くせないことを、歌にする。和歌にすることが出来るという驚きである。
他の国、他の民族には出来ないことである。
言葉は精神の命である。日本に生まれて良かったと思う。また、日本語で、文が書けるということも、感謝である。
何故、日本語がこのような文法になったのかを、学者は研究すべきである。
欧米の言葉は、文法が似ている故に、何カ国語も覚えられるのである。しかし、日本語だけは、別物なのである。
これは精神の構造と、脳の構造が違うということである。
これを解明すること、急務である。