時事放談 50 2006/10/25

木村天山


 時々放談も50回を迎えた。

 毎日、原稿用紙5枚の原稿を書くと、一カ月150枚になる。では、一年では1800枚になる。お解りであろうか。持続することの力を知っている者は、幸いである。

 

 50回を記念して、驚愕することを書く。

 昨年、イランにて、二人の十代の若者が処刑された。罪は、愛し合ったからである。 男の子同士が愛し合えば、イランでは死刑である。

 同性愛は、死刑なのである。世界の42か国では、いまだに同性愛が禁止され、7か国では死刑である。

 すべてイスラム教である。

 同性愛を禁止するのは、カトリックも同じである。

 聖書には同性愛を禁止した記述は無い。それは解釈の違いである。

 

 日本では、男性同性愛を、男色、衆道、稚児愛等々、言う。

 実に古い歴史がある。

 明治期に、キリスト教が輸入されてから、それは悪いことというイメージを与えられた。罪という感覚である。

 日本を訪れた宣教師たちも、日本人のすばらしさを言うが、ホモ行為みのは、納得がいかなかったらしい。本国にそう報告している。しかし、フランス、イギリスの愛の歌の多くは、同性愛のものであることを知る人は少ない。それらは皆、名曲になっている。

 また明治期に入ってきた、医学書に、同性愛は病気であるという、とんでもない説が、大手を振っていたゆえ、これは大変と、下級武士だった明治政府の要人たちは、思い込んだ。実は、そんなことは当たり前に考えていたのである。それの当たり前が、病気であるとの西洋の医学書である。今なら、お笑いものであるが、当時は、真剣に、それを受け入れた。現在、国連の保険機構では、それは取り除かれている。

 私は言う。愛し合った男の子を死刑にする権利が誰にあるのかと。

 イスラムの教祖、マホメットは、同性愛者ではなかったからである。ただ、それだけである。

 心理学的には、80%の人が、バイセクシャルの要素を持つ。その状況いかんで、異性愛者にも、同性愛者にもなる。

 当然である。人間である。そして男であり、女である。

 おもしろいことに、同性愛傾向の強い人程、同性愛を嫌悪するという不思議である。

 私は、そういう人を多く知っている。

 

 日本では、神代の時代から同性愛は、崇高なものであった。ギリシャも同じく。

 馬鹿アホ間抜けは、同性愛になれなかった。平家物語等々、日本の古典は、同性愛を知らなければ、説けない、解らないのである。

 であるから、作家の書く、平家物語はウソである。

 例えば、松尾芭蕉なども、同性愛を知らなければ、説けない。あの、赤穂浪士でさえも、同性愛を知らなければ、解けないのである。 

 同性愛を、ホモ、おかま、等々の言葉で、差別し始めたのはいつの頃か。

 

 人は人を差別して、自分を知るという特性がある。要するに、自分のことを棚に上げて、人を計るのである。キリストは、その計りで、あなたも計られるという名言を残している。しかし、クリスチャンは、その意味を知らないのである。

 きっと、自分が相手を計ったように、相手からも計られると思う。また、そう説教される。文面では、その通りである。しかし、違う。

 キリストは、あなたは、自分を知るために、人を鏡とするのである。その人に写ったものを自分であると捕らえるのである。と、なるのである。

 相手に写った自分とは、何か。

 自分というのは、自分で解決出来ない存在なのである。

 相手に写った自分しか、解らないのである。

 

 男と女が理解するということが、誤解である所以である。

 同じ人間でありながら、男と女になると、理解出来ないものになる。つまり誤解である。誤解が深ければ深い程、愛していると、錯覚する。愛しているとは納得である。

 同じ性の者は、理解するが故に、気持ちが悪い。心と心が通じ合うと、友情になるが、それ以上になると、恐れる。理解する者同士が、愛し合えば新しいもの、つまり今までにないものが生まれる。これを恐れる。

 人は、今までに無いものを恐れる。

 だから、繰り返すのである。歴史も繰り返すのは、そうである。

 

 どんどんと、話は進む。

 私が言いたいことは、絶対ということは、この世に無いということである。

 そして神なるもの、仏なるものも、無い。

 この世、つまりこの次元は三次元であり、相対の世界である。

 裏と表の世界である。

 

 人を殺すなとは誰も言わない。人を殺せとも誰も言わない。

 人を愛せとも誰も言わない。人を愛すなと誰もいわない。

 善悪も誰も言わない。

 ただ、法則と秩序があるのみである。

 

 今、時代が進歩して、同性愛のカップルにも、子供が出来るようになる。

 クローン技術が進歩したというが、もっと進歩している。

 知らないだけである。

 いかに、自分がものを知らないかを知る人が、未来を生きるのである。

 科学が宗教を超える日がくる。そして、宗教が伝統に変わる日がくる。

 宗教が妄想であることを知る日がくる。

 宗教は科学を超えるというが、宗教は、科学から追い抜かれる。そうして、皆、目覚めた時、伝統が生きる。

 伝統とは何か。

 以下省略する。

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