時事放談101 2007/1/13
木村天山
ある駅前で、幸福のナントカという宗教の冊子を配られた。
その中を見て仰天した。
常識的なお話が、霊界や仏の教えと交えて書かれてある。そこまではまだ、理解する。しかし、その冊子の、守護霊とか、五次元、六次元、七次元とか、文殊菩薩が憑いている等々は、マンガである。
ただ今、仏陀の悟りでさえ、怪しいという説も出ていることを知らない。仏教の基本的常識さえも知らないのである。
次元の違いの恐ろしさ皆無であり、ほとんどがマンガである。つまり、妄想、奇想天外なお話である。
あれを信じるという人の神経を疑う。
日本の仏教を仏教として理解しているとしなら、また、アホである。
日本には仏教は無い。あるのは、大乗仏教という亜流である。もしくは、法然教、日蓮教、親鸞教であろう。最澄、空海は、中国仏教の亜流の亜流を持って、宗派を立てた。密教などは、仏教とは、何の関係も無い。
それを知らないということは、あの霊能もウソというしかない。自己顕示欲の何物でも無い。その証拠が、建物である。
建物を建てる宗教は、皆々、ウソである。
教祖の定義は、この世に物を持たないのである。
さて、観世音菩薩とか、文殊菩薩等々は、人の想像の産物であり、観念である。憑くとか、憑かないとかの話ではない。言えば、妄想である。
大日如来を想定したというだけのことで、大日如来が存在すると信じているとしたら、愚の骨頂である。観念である。
人を騙す時代が、鎌倉仏教の時代である。
鎌倉仏教の仏教は、真実の仏教から、大きく外れた時代である。
念仏も、題目も、方便である。
ちなみに、法然さんと、日蓮が一緒のある山岳霊界にいることなど、知らないのである。 二人は、その後の信者の動向を、どう見ているのか、知っているのか。
知らない故に、信じるという愚行を続けて、宗教がある。品性の低い集い、それを宗教団体と言う。
幸福のナントカは、それを超えて、マンガになっている。
通りで、マンガで説明する当たりは、賢いと言える。
霊界の次元に関しては、仏陀も言及を避けた程、重要、大変な話なのである。
六人の魂の兄弟がいる等々は、ある霊界の一部の霊たちに支配された者の戯言であり、それを、そのまま鵜呑みにしている様は、滑稽である。
マンガ宗教も、ここまで行くと、絶句する。
勿論、そこに入信して、良いことがあったという人も出る。そういう人のお話を載せて、活気をつける。それは、どの宗教の布教にも使われる。
しかし、失敗した、絶望したという話は載せない。当たり前であろうが、証券会社の勧誘パンプと変わらない。
兎に角、先祖からの、伝統を捨てた、日本人の愚かさが、こういうマンガ宗教の出現となっている。
哀れである。
神も仏も妄想であることを知らない。
そんなものは、無い。ある訳が無い。
霊界にあるのは、旅する魂である。
皆々、大いなる私への旅を続ける魂である。
神道は、それを教えて、妄想を教えない。だから、言挙げせずと、教義を作らない。教義は、自然の中に充満しているからだ。
人霊が、方便で神と名乗ることはあるが、神という存在は無い。
そして、日本人が神という場合は、尊称としての神であり、欧米人が言う、神というものは、無い。
神や、仏というものは、迷いの段階である。
あるのは、魂(たま)である。たアまアという言霊、音霊であり、ア音は、神の別称となる。
その魂のみがある。神の別称とは、宇宙のエネルギーのことであり、そこにすべてが集約される。それを便宜上、神と呼ぶならば理解する。