時事放談102 2007/1/18
木村天山
訳あって、紅白の前半を我慢して見た。
今の歌を知りたいと思ったからだ。
読売新聞4日の夕刊に出いたコラムから。
「なぜまたいきなり『昭和ポップス』なんだと、お考えでしょう」
「今流行の舌足らずの音楽に比べれば、メロディーも歌唱力も圧倒的に優れている。これは日本そのものにも言えるのではないでしょうか。今ほど裕福な社会ではなかったけど、今よりずーっと魅力ある国だった」
と言う。アジア問題専門家で韓国系米国人のアラン・ソンさん48歳である。
8歳だった1966年から8年間日本で暮らしていたという。
私も聴いた。
呆れた。自分の内面を吐露するというのは、理解するが、誰が、あんな心のうちを聞かさせて喜ぶものか。あれは、あれを芸術的作品とする前の段階である。
ひ弱になり過ぎである。あれを、歌だと聴く感覚が理解出来ない。
演歌の、お馴染みの方が、まだ聞ける。
トレイで糞と小便を一緒にしたよーーーーという内容の歌の数々である。アホであろう。
ということで、前半で見るのを止めた。
あんなものを聞いていたら、落ち込むのがオチである。歌は感動であり、悲しみの歌を聴いても、明日を生きようとする心を生ずるものである。
まあ、あの程度の歌を聴いて、そう思う人もいるのであろう。そう思えば、納得する。つまり、あの程度の心境、心象風景なのであろう。万事休すである。
何も古いものがいいのではない。
新しいものに多くの希望が詰まっているのである。
溢れるほどの物によって、何が良いか悪いか、必要か不必要かを知らない者が多くなったと思えばよい。
勿論、良いも悪いも無い。正しいものなど、この世にはない。
私の勝手な解釈である。
兎に角、日本語がおかしい。言葉は世に連れと言うが、それは解釈が違う。
日本語と英語のチャンポンで、意味不明。
何であろう。リズムでもない。感覚と言えば、それまでである。ただ、理解出来ないのである。
伝えたいことを伝えるという気持ちがあるのかと、疑う。
自己満足、自己陶酔等々、もはや手がつけられない。若者が、あの日本語を聴いていると思うと、ぞっとする。そして、ああして、思考しているのかと思うと、絶望感一杯になる。
日本語を学ぶ他国の人に、申し訳が無い。
彼らが学んでいる日本語は、実に正しく深い。伝統を言葉から感じ取ろうとしている。 タイで、日本文を添削した時、これを日本の若い人は理解出来ないというより、漢字も読めないだろうと思った。
言葉は精神である。言葉は精神を作る。言葉の乱れは、即、精神の乱れとなる。
と言っても、世の流れ、それはそれで受け入れるしかない。ただし、私は、私なりに活動する。昭和歌謡を歌い続けるのだ。
私が出来ることは、それだけである。
時代の流れには敵わないというアホもいるが、時代は流れているのであり、その流れがまた元に戻るということもあるのである。
何も出来ない者が、何かを言うというところも、時代の流れなのであろう。