時事放談103
最終回。
木村天山
最後に当たり、言う。
何故、生まれたのか、何故、生きるのか等々のキャッチコピーで読む本は、ウソであるということだ。
それを実践により、自分の生き方ににより知ることが重大なことで、ハウツー物の本によってなど、解る訳が無いということである。
そして既存のものや、既成のものによって唱えられる、諸々の教えを始め、多く宗教が掲げる教義なるものもウソである。
人生は、妄想に生きるのか、実体験に生きるのかである。
誰も、それらを教えられない。
仏陀でさえ、言う。我が身を愛し、頼めと。
主イエスでさえ言う。あなたの宝のあるところに、あなたの心があると。
私の宝は、私であり、神や仏ではない。無いものに、宝を置いても詮無いことである。
神や仏を想定する人は、私の言葉を傲慢であると思うだろうが、あると想定して、人に説くこと程、傲慢なことは無い。
この世と、あの世に、絶対というものはない。
この世も、あの世の霊界も、流れて移ろうものである。
真実というものも、人の数程ある。言えば、神も仏も、人の数ほどある。
常の無いということが絶対である。
この世は、あの世の写しであるから、あの世も相対である。
ただし、次元が違うあの世のことを、この世に言葉にするのは難しい。
例えば、生まれ変わりと言うが、それを正しく説明することは、不可能である。
私が死ねば、私の人格は、分解される。最低、四つに分解される。しかし、私という人格も存在する。もうこの辺で、理解不能になるだろう。
誰々の生まれ変わりというのが、その者のすべてが、生まれ変わるということは無い。言えば、分霊というものである。
同じ人の、生まれ変わりが、複数いてもおかしくないのである。
以下省略する。
人間の知り得ることは、ほんのわずかであるということを知ることである。そして、私の意識などは、吹けば飛ぶようにものである。しかし、その吹けば飛ぶような意識で、生きるという意識を持つ。人生とは、綱渡りなのである。
過去、現在、未来が、同時に発生するということを理解出来ないように、この世の私の姿を、私は完全に把握出来ない存在である。
たった一言言えるのは、ただ、絶対孤独の存在であるということである。
その孤独の中には、何人も入ることは出来ない。それが、それを知ること、自覚することが恐ろしい故に、カルトのような、集いに身を入れる。
宇宙の法則は、因果応報、自業自得である。
誰も私を救えないし、また、私も誰も救えない。
仏陀も、主イエスも救わない。
彼らは、因果応報、自業自得を伝えたのみである。
主イエスは、あなたの信仰があなたを救うと言う。信じ切った私の信仰が救うのであり、それは、私の力であり、私のものである。
レベルの低い、霊界の人霊は、援助する場合があるが、レベルの高い、人霊、便宜上神に近い人霊は、手だししないのである。
女の霊能者に注意せよ。
建物を持つ宗教団体に注意せよ。
何かを拝みたい人は、太陽を拝すれば良い。
死んで、この世に浮游するなかれ。多く、死んだら終わり、無だと思う人は、浮游する。行くべき光を見ないからである。いくら知識を多く持っても、あの世では通用しない。
仏陀が言うように、あの世では、思い、心の思いのみが通用する。
宇宙には、おーと、うーの音霊がこだまする。送る、受けるという、繰り返しである。循環の法則を教える。それ以外に無い。
日本人がはっきりと発音する、あ、い、う、え、お、という五音が、宇宙を支配する。
これも以下省略する。
それでは、御機嫌好う。