時事放談51 2006/10/25
木村天山
匿名という暴力について言う。
このまま、匿名行為を許していれば、日本は確実に悪くなる。
何の責任も無い言葉が、暴力となり、テロ行為となる。
どこの誰かが解っての言論の自由である。勇気のある人が、署名入りで書く。すると、それに反対する者が、暴力で対抗する。勇気のある人も、次第に、言葉を発しなくなる。
これは、言論の自由の疎外である。そして、大変に恐ろしいことになる。
言いたいことがあっても言えない。言えば、報復を受けると思えば、自然に口が閉ざされる。こんなことを、許してはいけない。
私は、すべての文章に署名する。それが言論の自由を享受する者の最低限の礼儀である。 しかるに、このように匿名での批判や非難等々が横行すれば、言論の自由は疎外され、暴力で成る者たちに乗っ取られる。
そうなれば、言論の自由は無くなる。
言えば、殺されると思えば、言えなくなる。それを招いたのは、匿名の者どもである。 匿名ならば、何を言ってもいいと、人権を無視し、人の心を踏み付けても平気である。そして、素知らぬ顔をして過ごせる。決して、これを許しては、いけない。
多くのサイトに、ありもしないことを書かれて、自殺する人もいる。これこそ言葉の暴力、テロである。
勿論、私も常々そういうこと多々ある。
名無しの言葉に、振り回れる程、情けないことは無い。故に、私の言葉が、罵詈雑言になる。自分でも、嫌だと思いつつ、そこまで言わなければならなくなる。
脅すつもりがなくても、匿名の書き込みに対しては、念を送ることになる。それが情けない。
もし、誰なのかが解れば、言論で戦うことが出来る。しかし、それを放棄して、匿名行為を続けると、言論の自由が台なしになる。
新聞等でも、コメントを控える人が多くなっているという。言葉を発すれば、狙われるからである。
勇気のある者だけが、狙われると、この世は、益々悪くなってゆく。
この言論の自由を勝ち得た人々は、命を賭けて勝ち取ったものである。それを今、難無く享受している。
多くの犠牲のうえにある、言論の自由であることを、肝に銘じて、書き込みすることである。自分で、自分の首を絞めることになる。それを知るべきだ。
私は、少なくても、そういう匿名の者の書き込みには、徹底して、罵詈雑言を書く。
もし、私がそれに答えなくなった時は、日本から去る。
礼儀作法を持って、言論で戦うことが出来ない者は、書き込みをしないことである。
著名人で立派な人は、匿名での書き込みを無視する。
無視しなければ、益々世の中が悪くなることが解るからだ。
そんなものに答えていると、蟻地獄のような世界に入ってしまうのである。
匿名であれば、何を言っても良いとは、無礼千万である。
私は、それを毎日経験している。
言論の自由が認められている時代に何故かと、不思議に思う。それ程、人間の質が低下している。または、自信がない故の投稿なのであるか等々。
新聞の読者欄に投稿が載るが、確実に名前入りである。特別な場合を除いてはである。そうでなければ、記者が勝手に書けるのである。
世の中を良くするためにも、匿名での書き込みを無くすこと。または、特別な場合を省いて、匿名の書き込みは、削除することである。
名無しのものは無視する。それしか方法が無い。
今は、その人を評価するという言葉も、匿名になっている。つまり、その人を評価すると書いただけで、偏見を受ける等の差別を受けることがあるからだ。こんなことを許しいいのか。
言論を健全に機能させることが、この社会を良くする方法である。