時事放談60 2006/11/1

木村天山

 ただ今は、童謡ブームだそうである。NHKのある番組が解説していたという。私はテレビを見ないので、人から聞いた。

 様々な形で、童謡が取り上げられているという。

 そんなことは、知っていた。だから、私は、コンサートの中に童謡、歌謡曲等々、良い日本の歌を取り入れている。

 藤岡宣男が昭和歌謡に取り組む前から、私は、藤岡に、それを歌ってもらいたいと思っていた。何も、藤岡が師事していた先生のアイディアではない。

 最初から、私は考えていた。

 

 あるアホが、私のクラシック界に対する書き込みに、有名になって変えるべきというようなことを書いていた。勿論、匿名である。そうでなければ、あなたも同じ穴のムジナですよという。

 こうして、世の中にアホが溢れている。

 私はすでに活動しているのである。しかし、アホは、有名になってと言う。これがアホの上塗りである。つまり、私が有名になれば、認める、応援するということであろう。つまり、アホは、有名に弱いということである。つまり、それはテレビに出れば良いという単純明快さである。

 こうして、日本人は、テレビによってアホ馬鹿間抜けになった。

 テレビに出れば、許されると思っているアホである。

 大衆は愚かである。いや、大衆は愚かではなく、賢いという議論が、20数年前になされたが、私は、いつも大衆はアホだと思っていた。

 きっと、私がテレビに出て有名になれば、手のひらを変えるのだろう。本当に愚かである。良いものは、有名でなくても良いのである。

 

 さて、童謡のブームであるが、童謡は、いつもブームである。もう学校で教えないと言っても童謡はブームである。

 世代の断絶とは、これも20年程前に言われた言葉である。

 年代によって、知っている歌が違うと。そんなことは、いつの時代もあった。

 皆が共通して知る歌が、極端に少なくなったと言われる。それは時代の流れであるから、どうということもない。

 私が言うのは、童謡という歌にある普遍性である。

 日本の伝統である、万葉集がいまだに読まれるということは、あの時代の人間と、今の人間に大差ないということである。

 人を好きになれば、七転八倒する。好きになれば、セックスがしたくなる。セックスすれば、もう一度したいと思う。別れは辛い。人が死ねば泣く等々、あの時代と今の時代の人間に、どれ程の違いかあるか。

 

 私は、声楽家や演歌歌手の質が、どんどん落ちているので、自分で歌うことにした。手本は、藤岡宣男の歌である。

 演歌師、歌師、朗詠家である。日本語の語感を無視する歌は、日本を侮辱することになる。それでは、私の歌に日本語の語感があるのかといえば、それは人それぞれの批判や非難があるだろう。

 ただ言えることは、私は、やまと言葉による、祝詞を唱えることによって、やまと言葉の語感を確認しているということである。

 誰も、日本の歌を歌うのに、祝詞など唱えないだろう。

 すると、宗教行為だと言うアホがいる。

 祝詞は伝統である。これ以上は、語らないでおく。

 

 私のコンサートは、童謡、歌謡曲、唱歌、歌曲、和歌・万葉集朗詠と、すべて日本語の歌である。

 勿論、有名ではないから、お客は少ない。だから、良くないのではない。

 有名でなくても、良いものは沢山ある。

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