時事放談68 2006/11/10

木村天山

 藤岡宣男生存の頃、日本の歌レクチャーコンサートを開催した。

 東京、横浜、札幌である。東京、横浜は、三度開催した。

 その際に、歌の成り立ち、背景等を調べて、解説した。

 歌の成り立ち、その作者等の背景を知ると、歌がまるで変わる。今までにない、歌の世界が開ける。

 それ以後、私は歌の作詞、作曲を調べることにしている。勿論、コンサートで説明することがあるが、すべてを語れば時間がなくなるので、止める。

 

 それを楽しみに聞く人、そんなことは、どうでもよくて、歌を聞きたい人がいる。

 その違いは、何であろうかと、未だに解らない。

 

 日本語は、説明せずとも解ると言われれば、それまでだが、歌の成り立ちを知ると、歌に対するイメージまで違ってくる。

 知ることの意味は、歌に感情移入しやすくなるとも言える。

 歌う側、つまり歌い手だけが知ればいいという歌もあるが、聞く側も、知るといいと思う歌もある。

 演歌や歌謡曲の中でも、歌の成立過程を知ると、歌が違ってくる。

 

 意味を知るということの重要性が解るのである。

 今では、万葉集なども意味を教えないと、若い人などは、理解出来ない。朗詠する前に意味を紹介すると、日本語の美しさが、よりいっそう解るのであり、日本語の威力を知る。 単純な歌でも、藤岡宣男のように、目の前に風景を見せるのである。

 さくらさくらを、藤岡が歌うと、桜吹雪が見えるのである。

 私は、舞踊をする者だから、それがよく解る。

 踊りは、踊る側に風景が見えていないと、踊り、舞にならない。その踊り手の風景を、共有するところから、踊りや舞の世界に感動を覚える。

 

 芸術活動とは、感動の共有である。

 表現者と、非表現者との感動は、共感である。

 これが堕落すると、知る者同士の批評や批判ということになる。それは、悪いことではないが、それのみに陥ると、さらに堕落する。芸術の評論が、画一的になるのを見ればよく解る。

 評論は、最初から決定する。決定している。それを覆す程の表現者は少ない。

 評論活動も、様々であり、それはまた、創作である。

 私が、歌の説明をするのも、一つの評論的活動である。

 イメージ付けをしてしまうという恐れもある。知ることは必要なことだが、相手のイメージを崩すことになる可能性もある。

 思い入れの深い歌の場合に、その解釈が逆にレベルが低くて、歌を台なしにする場合もあるということだ。

 最小限の解説、最小限の案内を心掛けることだと、自戒する。道案内は、極めて簡素に、質素にすべきだと思うのだ。

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