時事放談70 2006/11/15
木村天山
読売新聞11月3日の紙面、憲法発布60年、「個」と「公」を考える契機に、という文章を読んだ。
「この国は、根っ子のところでどこかおかしくなっていると感じさせられる。社会の矛盾や歪みは、弱者や、精神的に自立していない者の身に凝縮した形で投影される。戦後半世紀以上を経て、この国、社会を、そして一人一人の生き方をその土台から見直す必要があるのではないかと、多くの人が気づき始めたように見えるが、その具体的な方向はなお拡散したままだ」とある。
そして、憲法改正に関しての歴史、その問題点を語る。
一人一人の生き方を見直すとか、根っこのところでおかしなくっているという提言は、素直に頷くものだ。
そこで、いつも思うが、マスコミ等、識者は分析に秀でるが、それ以上の者ではない。 分析のみに始終している様もある。
いつも、私は伝統教育を言う者である。それでは、伝統とは、何かとアホは言う。そして誰が伝統を決めるのかと。
例えば言う。伝統教育の一つ、たった一つの例を上げる。
箸の使い方を教えるということも、伝統教育の一つである。
食事の作法を教えることも伝統教育の一つである。しかし、今、家庭で、その作法を教える人がいない。誰も知らないからである。
特別なことではないが、若者を見れば、食事の作法などない。親が教えられなかったのである。それでは、言葉遣いはどうか等々、伝統教育とは、身に近いことから始まる。
長年に渡り培ってきた、所作の、動作の作法である。そういうところから始めなければ、次に続かない。
いくら議論しても、空論で終わる。
立派なことを言う人が、道端で、糞をしたら、驚くだろう。しかし、そういうことに近いことをしているのである。議論が、空論になる訳である。
日本の文化は、型の文化である。その型を学んで、形という個性的な表現へと進む。それを無くして、初めから何かを作るということは、至難の業であり、不可能とも言える。
特に、日本の場合は、伝統があるからである。
「個」の確立というならば、伝統教育である。
日本人とは、誰か。日本語を共通に扱う民族である。であれば、日本語教育は、必至である。国語をなおざりにしては、話しにならない。国語が得意だ、不得意だという次元の話ではない。
言葉の教育では、万葉集教育である。万葉集は、伝統の象徴である。
「個」の確立こそ、「公」の意識を考える上で、最も、重大なことである。
憲法改正、憲法議論については、別の機会に書く。