時事放談84 2006/12/17

木村天山

 心ある人、私に好意的な人が、「いつも悪いことを取り上げています。時には、良いことを書いて下さい」と言うので、どんな良いことがありますかと尋くと、しばらく考えていた。

 結果、テレビで、犬の救出をしていましたと言う。

 犬の救出とは・・・

 何人かに尋いた。すると、各局が、犬の救出の様を取り上げていたとのこと。

 何でも、自分では降りられないような、コンクリート壁の一つに置き去りにされていた。それをレスキュー隊が、救出するために、苦心惨憺であったというものである。

 ああ、良い話であろう。

 異を唱えることはない。

 そのままにしておけば、犬は衰弱死するであろうとのこと。

 昼間の番組であるから、見ていたのは大人であろう。心温まる話である。

 それをテレビが中継がしていた。余程、良い話が無いのである。

 犬を助けるといえば、その逆で、犬を多数放置して、殺していた会社もあったような気がする。

 

 その人は、良いことと言って思い出したのは、それだけである。

 今、社会で良いことが、少ないということか。テレビ各局が取り上げる程である。

 何とも言葉がない。

 

 何かを助けるということは、素晴らしいことだ。ボランティアという行為も助けるという行為である。いや、助けさせていただくと言う人もいる。助けるのだから、助けてやるでも、助けさせていただくでも、やることは同じである。

 良いことにお金を使うのであれば、やくざからでも寄付を貰うと言った作家もいる。

 お金に汚いも、奇麗も無い。どう使うかである。

 心を貰うと言うが、心は、形になって解るものである。

 必要なところに必要なものを贈る。助けることになる。それでいい。

 犬という、人間より低い地位の生き物を哀れむ。それで、何か、昇華する。可哀想であると言う時、そこには、自分より低い者や物を言う。

 相手が強盗殺人を犯した者であれば、どうか。可哀想と思うか。複雑である。

 犬は助けられたそうだ。

 この世には、助けなければならないものが多くある。どんどん助けるといい。何も、24時間テレビの時だけ助けるという気持ちを持つのではない。毎日、助けが必要な人がいる。私の回りに助けが必要な人が多くいる。

 犬の救出を見ている者は、それは単に見ているというだけで、何もしていない。傍観している。これがテレビの限界である。そこに参加しているような錯覚を起こす。

 結局、テレビは魔物である。そして私も結局、良い話しより悪い話しになってしまった。


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