時事放談85 2006/12/19
木村天山
人は見た目が九割であるということ、そして有名であれば、何でも許されるとは、真実である。
これを書けば、バッシングを受けること大であると思うが、言う。
藤岡宣男の歌を聴き、そして自分も歌うようになって、歌手、声楽家の歌を実によく聴くようになった。繊細微妙さを聴く。
声楽家の大半は終わっている。声楽を聴くなら、素人、つまりアマチュアの人を歌を聴く。それ程、プロは勘違いしている。
そして歌手と言われる人の歌である。若手演歌歌手の氷川きよしの歌を、本当に上手いと思って聴いているのかと思う。あれは、歌以前の歌である。
威勢に任せた、叫びに近い。才能があるということは解る。しかし、どうして誰か指導をしないのだろうかと思う。折角の才能が、台なしである。
一万人程を集めてのコンサートも盛況だと言う。見た目が九割という不合理を、正に感じる。そして有名である。
老人から若者まで、幅広くフアンがいるという。凄いことである。
ただし、日本の歌手として、世界に出て欲しくないと願う。
韓国ブームで、誰か忘れたが、丸ビルで歌ったが、聞けるものではなかった。
しかし、溢れるばかりの人である。信じられないの一言。
何か術をかけられているのではないかと、歓声を上げる人々を見ていた。
私が、批判すると、アホが有名になれば、いいですよと言うのが、よく解る。
有名になれば、私の批判も受け入れられるということだろう。
そして、有名なピアノ弾きのおばさんである。フジコなんとかという、おばさんのピアノである。よくもまあ、多くのコンサートを開催していると驚く。日本には、ピアノの善し悪しを解る人が本当に少ないと思うのである。
誰も知らないのであろう、ピアノ演奏を。しかし、私もピアノ演奏については、素人である。
ある地域の青年会が、おばさんを呼んで、チャリティコンサートを開催すると言う。私に、良い席を取って上げますよと言われた。
それは、聴くのが当たり前であるという雰囲気で、驚いた。私がすぐにでも、お願いしますと言うと思っているのである。
友人も、あの人のピアノっていいんですってねーと言う。一度聴いてみたいと言う。
私は、何も言わなかった。
勿論、好き好きであるから、良いという人がいても不思議ではないが、だいこんを刻んでいるような音は、御免である。
兎に角、世の中は、見た目が九割と、有名には、敵わない。
ピアノ演奏は、子供や素人の間違いがあるピアノ演奏が好きである。私は。
音大や芸大出のピアノ弾きは、ほとんど病気に近い。喧しい。
天才華道家と言われる者の花を見て、単にお金の問題であると思う。しかし、宮内庁も彼に依頼したという。金を掛けられば、あれくらいの花は、華道10年選手ならば、活けられる。髪を染めて、おかまキャラでテレビに出れば、宮内庁も動くのである。
信じられない。
そして、霊能者というのか、霊感師というのか、スビリチアルなんとかいう人である。
死んだ人のメッセージを受け取って、語る。あれが妄想なら、どうするのだろうか。
また、死者のメッセージというものは、誰も確定することが出来ない。
あなたの後ろにいて、云々というが、彼にしか解らないのである。それを聞いて、泣く人もいる。要するに、信じるのである。当たっているからであるというが、アメリカの心理学では、あのようなことが、レッスンすれば出来るという段階まで発展している。
私は、それを否定しないが、死者のメッセージは、余程の事が無い限り、伝えられるものではない。
少しの賢さがあれば、自分の意識の程度を知るものである。
自分が決めていると思うことは、そう思い込んでいるだけの話で、大いなる力が働いていることを悟るのである。
この愚かな私が、世の人々をアホ馬鹿間抜けと思うのであるから、知れた者であろう。
本当に、人々は、死ぬまでの暇つぶしに生きているのであると思うのである。そして、哀れなのは、それを知らないということである。