時事放談87 2006/12/22
木村天山
教育基本法について、政治家が、口泡飛ばして議論するのを見て、私は笑う。
法律を作って、一体それを誰が行為するのであろうか。
国家の骨格に関する云々と言う。
何処の国、誰のことを言うのであるのか。
一般国民が、どうしているのであるのかを知らない。
政府主催のタウンミーティングのやらせ質問等々、茶番劇であり、もう、好きなようにやってよし。
政治家は文章が好きなようである。法律という文章を作るということに命懸けになるならば、もっと命懸けになった方がいいものがある。
今回、野党で対案を出したのは、民主党である。自民党と、民主党が交替で政権を担当すれば、それでいい。後は、好きにすればよい。
社民党や共産党は、終わっている。批判精神は旺盛だが、口ばかり達者でどうする。
公明党に票を取られている共産党は、真摯に反省して、解散すべきであろう。何も出来ない団体なのであるから。
国家権力によって、法律を云々とは、時代錯誤も甚だしい。それの議論に付き合う自民党の面々が気の毒である。
今、どんな時代なのかを知らない共産党は、自害して果てるべきである。国家権力を言うならば、共産党体質は、どうなのだ。
言えば切りのないことは、言わないで置く。
もう一度言うが、誰のための教育基本法なのであるかということ。
当然、国民の代表である政治家が決めることであるから、数であろう。数の多い者どもが勝つ。当然である。それが国民の総意である。
政治とは、数である。
それをまだ曖昧にしているつもりなのか。
選挙とは数であろう。単純明快である。票を得るためには誠意である。それ以外に無い。政治家は誠意である。勿論、人間は誠意に尽きる。
公明党の見事な発展は、誠意である。不祥事があれば、皆、即座に退陣するという、実に誠意ある行動を取る。当然、支持を得る。
ただし、誠意も種類があることを言って終わる。
追伸)教育とは、強制である。
もっと真実を言うと、教育とは、柔らかな強制である。
そこをごまかさずに言える政治家はいるか。教育者はいるか。
日本国民であるという幻想を持つためには、それに相応しい強制が必要である。