時事放談88 2006/12/24

木村天山

 私の知り合いに、霊的な力を得て、病気を治すという者がいる。私はまだ会っていないが、共通の友人から聞いた。

 宗教の教祖や開祖は、病気治しから開宗することが多い。

 確かに、病気を治すという行為を見せれば、人は信じる。それの詐欺的行為をした宗教の教祖が、多く詐欺罪で告発されていたことは、古くない。

 さて、霊的能力について、以前も書いたが、病気を治すということで、その力が偉大であるとは、思えない。問題は、その後ろに、どのような霊的存在があるのかということである。

 

 多く、人に奇跡を見せる霊的存在は、日本で言えば、天狗系の霊的存在であり、西洋で言えば、魔的な存在である。

 イエスキリストも奇跡を行った。聖書には、死人を蘇らせたという記述もある。イエスは、どのような霊的存在によって、そのようなことが出来たのかが問題である。

 

 正統的霊学から言えば、霊的存在で奇跡を起こすのは、あるレベルの霊界の霊的存在である。あまりレベルが高いとは言えない。

 病気が直っても死ぬ場合もある。

 問題は、病気になったがゆえに、知るべきことである。その病気になった意味を思索することが、大切なことである。

 治すことが第一ではない。

 病気になって、人生が深まること多々ある。

 それを知らずに、単に病気を治した。だから信じた。それでは、単なる盲目的信仰と変わらない。

 

 突然、霊的能力を得た人は、数多い。しかし、その本当の姿は、解らない。

 どこの霊界の霊的存在が関与しているのかであり、情報もそうである。レベルの低い霊的存在が関与していれば、いずれは、その能力に限界がくる。

 神が憑いたという人もいるが、神は憑くことはない。人霊が神と名乗ることはある。しかし、神と名乗る程の高いレベルの霊界であるかどうかは、解らない。

 霊学から言えば、神は無い。あるのは、宇宙を動かすエネルギーであり、それは充満している。それを神と言うならばそれでもよい。神という存在は無い。

 高いレベルの人霊も、便宜上神と名乗る場合はあるが、余程でない限り、神とは名乗らない。ということは、神が憑いたという人は、霊が憑いたということであり、それは、危険なことである。

 幽霊などは、いつも誰かに憑こうとしている。

 

 結論を言う。霊界も妄想である。霊的能力も妄想である。妄想の別名は、想念である。すべては想念によって作られる。肉体があるから病気になる。肉体が無ければ病気も無い。要するに、霊体になれば、病気は無い。しかし、幽霊は病気を持つ。幽霊、つまり幽体を捨てない限り、病気の想念は消えない。

 肉体は、実に、やっかいなのである。

 野生動物に病気は無い。人間も最初は、そうだった。いつからか、病気になることになった。それは迷いだった。

 自分が霊的存在であると気づくことが出来れば、幸いである。霊は、完全無欠なものであるから、その意識を持ってすれば、すべての本質が解る。

 生きるということは、実に、悪い冗談なのである。

 

 追伸)肉体、幽体、霊体、魂から、人間は出来上がっている。目に見えるのは、肉体のみである。幽体は肉体の写しである。霊と魂は、光である。肉体、幽体を捨てて、霊体になると、光によってのみ、その存在を示す。あるべき霊界に入った人は、美しい光を発する。ちなみに、藤岡宣男は、青い光を発する。紺碧に近い青である。幽霊では現れない。

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