時事放談89 2006/12/25
木村天山
エイズ問題から、同性愛セックスについて書いたことがある。その時、管理人が、懸念して連絡をくれた。曰く、誤解されるのではということだった。
私は、このホームページを読む人は限られているから、一向に気にすることは無いと思ったが、管理人に従おうと思った。
一日置いて、管理人は、それを掲載した。
日本は、同性愛について寛大、いや、当然のことであるとした伝統がある。
いつから、同性愛、特に、男性同性愛者を差別するに至ったかを言う。
明治の初めからである。ヨーロッパの文化を取り入れようとした時、同性愛が、病気であるとの、西洋の医学、その裏にキリスト教の教義がある。
聖書に同性愛を罪と定めているというものだ。
旧約聖書には、マスターベーションも罪に定めている。
とんでもない、律法、つまり禁止事項である。モーゼの十戒というものがある。
盗むな、姦淫するな等々である。禁止事項があるとは、そいう行為を成す者多々ありということである。同性愛行為もしかり。
ある心あるプロテスタントの牧師さんが、同性愛に対する理解のために、特別な行動を始めている。しかし、私は、それを読んで、矢張り、聖書学、教義から抜けられないというキリスト教の限界を感じた。
聖書学や、教義等々、お勉強をする人々は、全く、物を知らない。
物を知らないとは、自分の感性や、自分の霊感を否定するということである。
そんなものを、聞いてられない。馬鹿馬鹿しいのである。
結局、男女のセックスは、生殖のために許されるが、それ以外の性行為は、許されないというものである。
私は言う。
人間の根本的欲望を否定するものは、魔界のものである。
同性に性的欲望を覚えることが罪であるはずがない。
男が女に欲望を抱き、思いだけでも持つと、それは実行されたものと同じと主イエスは言った。
さて、キリスト教の皆々様に言う。欲望の無い人間がいるか。
欲望を否定することは、罪である。
主イエスの言葉は、実に簡潔であり、それには説明が必要である。その説明をする者に誤りがある。神学者とか、聖書学者である。
「思いで、女を犯した者は、実行したことと同じである」という言葉の真意は、思いの世界、つまり思いの次元があることを言う。次元の違いを別名、霊界という。それを、主イエスは、言った。想念は、動くということである。
仏教には一念三千世界という言葉がある。一念は、三千の世界、つまり無限の想念の世界に通ずるというである。一念、無限世界という方が当たっている。語呂が良い故に、三千と言ったものである。
この意味が解れば幸いである。
人間の欲望を否定するものは、罪である。
欲望は、生きるための最高の意義である。
欲望は、恵みである。
古神道では、欲望を最大限に肯定する。
当然である。欲望が無ければ生きられないからである。
さて、同性愛、ゲイに対する肯定的見解を言う。ゲイを否定する人は、ゲイになる人である。ゲイを否定しないヘテロ、つまりノーマルな人は、そんなことは、どうでもいいので、あっそうと、否定しないのである。
要するに、ゲイ感覚のある人が否定するというカラクリである。キリスト教徒は、ゲイになる要素大であるゆえに、否定し、罪と定める。
宗教は、人間の一番弱い部分を支配して、成り立つ。性は、最も人間の弱い部分である。欲望が無ければ、子孫繁栄は無い。
いい気なものである。
旧約聖書には「生めよ増やせよ地に満ちよ」という言葉がある。子孫繁栄である。それはセックス礼讚であろう。どんどんセックスして、子供を生めというのである。妻が子供を生めない場合は、別の女に子供を生ませてもいいのである。
根本に一夫多妻がある。
イスラムは、一夫多妻を取っている。だが、それでも性を罪に結び付けるのは、支配する策略がある。
私は、古神道を学ぶことによって、その宗教の根本的誤りに気づいた。
だからといって、チベット密教などのセックス礼讚ではない。また、密教の教義の性礼讚でも無い。あれは魔界のものである。
差別意識によって人は生きるという。
かろうじて、アホ馬鹿間抜けは、差別意識を持ってしか生きられないのであると言う。
その一つがゲイ、同性愛者である。
はっきり言うが、同性愛性交の出来ない者に、この世の奥義が解る訳が無い。
その意味を知りたければ、お勉強してみないさいと言う。
同性愛理解に至った牧師さんも、同性愛性行為は、罪であると言う。聖書解釈の立場からである。
兎に角、性は、生殖のためのものとの一辺倒である。
何ゆえに、人間の前頭葉が発達したのか。それは、生殖行為の性行為を超えるためである。性を、あらゆる場面で、最大に活用すべく、前頭葉が発達した。
罪というならば、堕胎の方が、千万罪であろう。
同性愛行為は、妊娠しない。故に、堕胎も起こらない。
それとも、異性愛者であれば一ダース程の堕胎をしても、同性愛者の方が罪人だと言うのだろうか。
異性愛と言う言葉も、同性愛と言う言葉の後に出来た言葉である。
聖書によれば、オナニーも罪である。
オナニー、マスターベーションを罪に定めるという暴挙である。相手がいない者が、性の喜びを知るためのオナニーまで、誰が罪と定められるのか。
宗教は、戒律や禁止事項の多くを持って宗教である。それが最大の誤りである。
古神道では、すべてを人間に任せた。この世に生きるのは、人間である。性の欲望も人間に任せた。自然にあるべきように、人間に任せた。
オナニーも、同性愛行為も、人間の自由に任せた。それで善し。
あちらの神もどきは、肉体のある人間に嫉妬して成り立つ神である。
肉体を喜びを否定して、支配するという、その根性が気に入らない。
再度言う。欲望は恵みである。
欲望からの解放が悟りであるとする仏教の一団がいるが、欲望を否定して、何ゆえに、この世に生を受けたのかを知らない。
それ程、欲望を否定するならば、生きる意味がない。
ただし、人間の理性は、欲望の生かし方を考える。それでいい。自分の欲望の有り方を考えること、そこに、人間の素晴らしい存在の尊厳がある。誰も、それに示唆を与えることは出来ない。
仏陀は出家者に、女の膣に男のペニスを決して入れてはならないと言う。女は魔物であるから、注意、注意であると言う。
女の膣は、出家者に、それ程恐怖を与えるものであることを仏陀は言った。知らないことは無いものと同じであるという論理である。
だが私は言う。知れ。知って、それを超えることが、最も大切である。仏陀も、女の膣を知ってからの出家であろう。
女の膣が、男のペニスを蕩けさせるものだから、いいのである。そこに、人間の喜怒哀楽が、すべて詰まっているから、いいのである。
男の射精を喜びと、女のアクメの喜びに、人間の喜怒哀楽があるのである。それで善し。言うこともなし。
それと同じで、同性に性の喜びを見いだす人は、同性の性器をしゃぶればいいのである。アナルの快感を得ればいいのである。そこに喜怒哀楽がある。
セックスは、人生の縮図である。それを否定するな。
それを超えた時、いや超えなくても、人は死ぬ。
確実に死ぬ。
肉体を失って始めて、肉体の素晴らしさを感得するであろう。
おわかりか、宗教関係者のアホども。
魂は、永遠の旅を続ける。
私に出会うために、私は、こうして永遠の旅を続けているのである。
そして風になる。
私の言葉を聞け。
古神道の奥義が、そこにある。
理解するものは、理解するがよい。聞ける者は聞け。
以下省略。