時事放談97 2007/1/6

木村天山

 タイ、チェンマイ滞在記の付録である。

 チェンマイは、貧乏都市として目立たずにあった。

 30年前、その前後から、日本人が訪れて、活気が出た。

 それは、売春による外貨稼ぎからだった。

 その頃の、現役添乗員をしていた方から、じかに話を聞いた。

 タイ、バンコクツアーのオプションで、チェンマイツアーがあり、それは売春を目的にしたものであった。

 集団売春の走りである。

 集団で、売春宿に行き、ナンバーをつけた女性を、客が見定めて、買う。

 その方は、見事なものだったという。ひな壇に並ぶ女性たちは、壮観であり、客は、選ぶことも楽しみに、人によっては、一晩に二三人と相手を変えたとも言う。

  

 チェンマイは、戦争により日本軍に悪い思い出はない。

 日本人が来ると、お金になるという、良いイメージだったという。それが、今のチェンマイを作ったのである。つまり、売春に対しての、大らかさ、屈託の無い感情。

 それを聞いて複雑であるが、その方が言うには、当時、フィリピン、シンガポール、韓国も、売春で外貨を稼いでいたという。丁度、日本が高度経済成長期であり、新興金持ちや、普通のサラリーマンの慰安旅行に、売春は、当然のようについたという。

 

 女の股で稼ぐという。女は、強しである。

 良い悪いは別の問題である。もし、それを止めると、国が立たなくなる。国が容認していたのである。

 

 チェンマイで出会った、高齢の日本人男性から聞いた話である。

 こちらに長期滞在してから、女性を買う楽しみを覚えた人もいると。日本では、そんな余裕や、家族の目があり出来なかったことが、今は、出来ると。

 それを複雑な心境で、私は聞いた。

 ロイコ通りという道がある。夜の街になると、そこに体を売る女性たちが、旅行者を誘う。レディボーイも多数いる。体を売って稼ぐのである。

 マッサージの女性たちも、誘えば、来る。体を売ることに抵抗がないのである。

 そこで、道徳を説いても、しょうがない。彼ら、彼女たちを食べさせることが出来ないのであれば、それを黙認して見るだけである。

 

 売春が罪であるとの意識は、どこからのものかと、今一度、考える。

 弟を大学へやるために、体を売るレディボーイもいた。自分も、多くのことを学んでいる。そのエネルギーは、計り知れない。

 日本の豊かさというものと、そこにある、豊かさの違いに、佇むのである。

 

 欧米人の高齢者に付き添っている、タイの若い女性たち。あきらかに、買われたというのが、解る。現地妻として、彼らの世話をしているのだろう。

 これは福祉であろう。

 

 アジアの旅行記を数多く読んだが、矢張り、自分の目で見ると違う。

 至るところの女性と関係を持った旅行記も読んだが、それとも違う。

 タクシン首相が、無血革命によって、地位を剥奪された。

 そのことを、色々な人に尋ねた。

 警察官が少し立っただけだと言う。それは良かったのかと問うと、タクシンは、貧しい人々に支持されていたという。それは、無料医療を実施したからである。

 タイは、貧しい人が大半であるから、彼らの心を掴むには、一番の効果である。選挙に勝つために、したのである。

 しかし、タイの人々は、国王の判断に従った。

 タクシンの悪巧みは、阻止された。彼は、国王を亡き者にし、大統領制を立てようとした。それをタイの人は、感じ取ったのである。

 国王を亡き者にしようとするのは、タイでは大罪である。

 法律を改正して、自分の営業に税金がかからないようにした。国際空港の建設の賄賂で大儲けしたということより、国王を軽く扱ったことによる、それが第一だった。

 

 売春や性に大らかだが、国王に対しては、一つの筋が通る。

 ここに、タイの秘密がある。それを、どの旅行記も書いていないのである。

 

 日本の天皇と、タイの国王は、良き友人であると言うと、皆、喜んだ。

 彼らは、自分たちが国王を慕うように、日本人も天皇を慕うと思っている。このタイ人の情緒を理解しなければ、タイの深みを理解出来ない。

 黄色のシャツ、それは国王に敬意を表するものである。誰もが、一枚は、持っている。腕に黄色の帯を巻いている人もいる。

 

 タイの国王も、自ら、象徴国王として、民主化を進めている。政治を国民に与えた。それが世界の潮流である。

 クーデターに反対した人々も、タクシンにも反対であり、結局、国王の関与を善しとした。これを理解出来なければ、タイを理解出来ない。

 権力ではなく、権威を求めるタイ人である。

 ここに私は、国家という共同幻想の理想をみる。

 ネパールでは、国民が国王を拒否するデモを起こした。しかし、議員たちは、儀式のために、国王の存在を維持しようとした。長い目で見れば、一つの権威を定めておくことが、正しいと考える。

 どこかに、権威を置くことで、国民の心情を安定させる。

 

 日本の天皇は、国民の祈りの象徴でありたいとの、お言葉である。

 国体を意識する者、それが天皇である。我々国民は、自分のことで精一杯である。しかし、国に一人でも、すべての国民のために祈る方がいるという僥倖を捨ててはならない。

 

 さて、タイのチェンマイの売春の話から、ここまで来た。

 民主主義も、共産主義も、結局、完成された思想ではない。そこに、人間の存在が無ければならない。その存在の確たるものは、人間の存在なのである。

 タイには仏陀と、国王がいる。

 日本には天照大神と、天皇がいる。

 理想ではないか。

 以下省略。

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