時事放談 追加3

木村天山

 以前、富士大石寺顕正会という宗教団体の、無料配布の本について書いたことがある。

 その顕正会の本部に、神奈川県警公安課が操作に入った。昨年、入信勧誘のトラブルで、511件の相談が寄せられていたのである。

 実は、この頃、新興宗教の勧誘が凄まじい。

 兎に角、人数を集めたいの一心である。

 信心は、布教から、勧誘からという教祖、教団からの命令である。

 彼の会も、まず人集めなのである。それは、同じ宗派から出た、巨大教団に対抗するためのものである。一方は、1兆円程の資産があるという団体である。これには負けていられないとの、信心勧誘であろう。

 その他、マンガ宗教や、伝統宗派から免許を受けた教祖である等々の教団、そして、霊能ものどきで、信者を獲得する、今流行に乗れというばかりの宗教。その実態は、人を集めれば、金が集まるという一点にかかっている。

 

 日本には、宗教が無いといわれる所以である。

 悪い例ではあるが、欧米、イスラム諸国では、宗教という伝統が、その基礎が確実にあるゆえ、新興宗教を起こす素地がない。多少、日本の新興宗教が進出するが、そんなものは、子供騙しのようなものである。

 彼の宗教は、金ではなく、命を掛ける。

 同じ宗教と名乗っても、全く異質である。

 私は、信者に言うことはない。それで満足しているのだから、余計な言動は控える。

 ただ、宗教団体が、政治団体のように、庶民の幸福ではなく、自分の政党や団体のためにあるという事実を言う。

 つまり、主義や主張のために、利用されるのが人々である。

 真理は、人の数程ある。神も仏も人の数ほどある。仏陀の教えも、主イエスの教えも、流れているものである。

 天地が揺らごうが、私の言葉は揺らぐことは無いと、主イエスは言うが、それは、その当時の方便である。クリスチャンで汝の敵を愛した者を見たことがない。汝の敵は殺すというものばかりであり、主イエスの言葉は、すべて揺らいでいる。

 恋愛を装い、集会に連れて行かれた等々を聞くと、唖然とする。そうしての入信行為である。一度だけでもお連れしたいと言い、受付で名前と住所を書かされて、信者にされた等々。そんな話しは、ごまんとある。

 信仰とは、一人一人の情緒である。何人も、それに関与することは出来ない。

 彼の会は、大学生に食事をさせ、車で会館に連れて行き、信心を強要させた。それは、本部の指導マニアルに基づいたものである。保険の勧誘と変わりない。そして、多くの団体が、そうである。

 では、既成の宗教団体はどうか。全く役立たずであり、浅い歴史に乗り掛かって安泰しているという様である。

 潰れる訳が無いと信じているのである。

 特にそれは、日本仏教という既成の宗派の僧侶たちである。

 

 仏教とは名ばかりで、念仏、題目等の外道を成す者共であり、それをもって仏教だと、学者も識者も言う。つまり、片棒を担いでいる。要するに、馴れ合いである。

 ぬくぬくとした部屋にいて、衣食住、何不自由なくあり、そんな中で、仏の教えも何も無い。あるのは、外道の教えである。

 何度も言うが、日本仏教は外道である。つまり、仏陀の教えと、全く関係無い。中国思想のものであり、仏陀などとは遥かに遠い。

 意味の無い読経をして、意味あると思い込むあたりは、いかれているのである。実は、それを知っても、その安穏さに、安住しているという外道振りである。

 国家が宗教を容認するのは、人心の乱れを昇華させるためである。はけ口の役割をさせているのである。それにまんまと引っ掛かったのである。信者は、信心という妄想の幸せの中にいる。

 何の根拠も無い教えに、心酔している様は、哀れと言うしかない。

 霊界には、宗教は無い。あるのは、心の波動のみである。

 以下省略。

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