新沈黙を破る 4
さて、クラシック関係の人間の薄情さを通り越した、愚劣極まりないその行為を以前に書いた。死んだら終わり。いい気なものである。
結局である。藤岡の遺骨安置して、歌の社(やしろ)を設けているが、矢張り、彼らの一人もお参りに来ることはない。大半が一般の皆様である。
これでお解りだろう。何を言っても、信じられないのである。その行為に、すべてが現れている。
私にしてみれば笑止千万である。
プロデューサーが舞台に出て歌えば、笑止千万というが、彼らが、そうなのである。一体、その人生を、どの面下げて生きるのであろう。
勿論、私は怒って書くのではない。冷静に現実だけを延べている。
後の判断は、読まれる人が決めること。
彼らが人を、人の心を感動させる芸術なるものを成しているという愚劣である。人情も解らないものが、一体、芸術の何を解るというのだろうか。それとも、西洋音楽の真実である、冷酷無比の心情を持って芸術なるものを成しているのであろうか。
シューベルトに涙するが、人の死に対しては、冷酷無残である。
カトリック信者が、ミサの間だけ「主の平安」と挨拶するが、終われば、鬼の心になるのに似ている。しかし、彼らは、それに気づかない。
藤岡の知り合いの、貧乏臭い札幌の陶芸家と自称する更年期障害の女も、カトリックであったが、あれ程、藤岡のフアン、そして応援者を任じていたが、その亡き後、何ら悔やみの言葉もない。私は、同じカトリックとして、呆れ果てた。全く、常識外れであり、口先の信仰、いやその前に、人間として成っていないのである。生まれ変わりが必要であろう。一度、死んだ方が増しである。
こうして例を上げても、まだ解らない者共である。
万事休す。是非も無し。自害して果てよと言う。
私は、藤岡が亡くなっても無くなっていないということを、再度言う。
そして、その藤岡が活動を始めたのである。
お解りか。
死んだ人間が活動を始める。そんな馬鹿なことがあるかと考えるアホが大勢いる。人間、死んで終わりであるなどと誰が言った。
私には、明らかに藤岡が活動を始めたことを、240日の命(みこと)上がりの日に確信した。ほぼ深夜の時間である。
では、藤岡は、どのように活動を始めたのか。
それを簡単に言う程、私は愚かではない。
私は言う。
藤岡は生前から、人を見抜いていたが、霊体になったのであるから、もうお見通しである。人を透かして観ている。ウソもすべて見抜かれる。
霊体にならない、幽体でも、人の心を見通すのであるから、霊体ならば、そのもっと深くも見通す。潜在意識の底まで観る。
再度言う。人が死んだら終わりなどと誰が言った。
世の始めから、誰もそんなことは言っていない。
ただ知らないだけである。次元が違うから無いとは、笑わせる。
藤岡が、どのような活動をするのか、とくと見て欲しい。
キリスト教は、主イエスの復活を高らかに歌うが、復活など、誰でもする。アホも休み休み言うことである。見えない物は無いと誰が言った。世の始めから、そんなことは誰も言っていないのである。
藤岡の思念は、私に、もう何もしなくていい。すべてを止めてもいいと言う。コンサートも自分の歌声も、何もかもすべてを虚空にしていいと言う。
一切、無きものにしてもいいらしい。
この世に捕らわれることがないから、いいのだそうだ。そんなことは、どうでもいいらしい。
だが、私は迷い多い人間であり、まだ人間であるから、藤岡の歌声を、世に出すべくやる。一度決めたことである。死ぬまで、藤岡の歌声と共に生きる。
さて私は、藤岡の死については、後々に書くことになる。それは人間の生の秘密にたどり着くことになる。そして死の秘密にでもある。
だが、その時は、まだ来ない。追追である。