新沈黙を破る 5
通常の感覚であれば、こんなことは書かないであろうが、私は書く。
恥知らずだからである。
藤岡が亡くなり、三日目に密葬をした。
亡くなった翌日、私は藤岡のお母さんに伝えた。お母さんは、すでに認知症を発症していた。藤岡も薄々気づいていたが、まだ軽度であった。
密葬を終えて、一週間程、泣き続けていたお母さんだが、認知症が重くなり、藤岡が亡くなったことを忘れた。それからが大変であった。
深夜徘徊を二度し、警察に保護された。
私は、毎日、食事を持って行き来していたが、限界だった。すぐに、ケースワーカーに相談し、お母さんの対処に当たった。その悲しみを忘れるべく、認知症が重くなったと思った。状態を書けば切りがない。
認知症専門の病院に検査で行き、鑑定を受けて、その受け入れ先を決める。しかし、最初病院は、入院させることは出来ないと言ったが、担当の医師が、即日入院を許してくれた。それ程、重いものだった。
そして、認知症専門のホームである。ケースワーカーが、知り合いのホームに部屋が一つ空いているというので、即座にホームに向かった。あるだけの現金を持ってである。私は、なんとしても居れて貰わなければならないと思っていたのだ。
本人を連れて話をしに行く。面接ということで伺った。その場で入居の了解は取れなかった。ただ今は、順番待ちになるとのこと。後日、連絡するとのこと。
そのまま、お母さんを病院に入院させる。
翌日、ホームの責任者から電話があり、受け入れるとのこと。
私は受話器を置いて泣いた。
信じられないことが次々と起こるのである。
入院出来ない病院に入院することが出来、また、順番待ちのホームに即入居を許された。最早、藤岡の力であると確信した。そして、嬉しさで泣いた。
私も、藤岡の死に動揺し、お母さんの対処に動揺して、一人佇んでいた。藤岡のお弟子さんが援助してくれて大いに助かったが、私の心境は祈るものだった。悲しみに暮れると共に、お母さんの、これからの生活を考えての混乱である。
しかし、事がスムーズに進み、安堵と藤岡の意志に深く思いを馳せた。お母さんを最後まで自分で世話すると言っていた藤岡である。どんな思いで亡くなったかと思うと、胸が張り裂けそうになるのである。
さて、四日間の入院から、そのまま部屋に戻さずに、ホームに入居させた。遺骨を見せたり、部屋を見せて、悲しみを思い出させないためである。
無事ホームに入居して、私は安堵の涙を流した。その間の、大変なことは想像していただきたい。
さて、その後である。後見人問題である。知り合いは私しかいない。世話をしているのも私である。当然、後見人の候補になった。何せ、親戚等とは、30年以来付き合いがないのだ。藤岡と母は二人で生きていた。
家庭裁判所の面接に行く。そこまでは順調だった。私も後見人になると信じた。区役所のケースワーカからも、当然その権利を有するべきであると言われていた。何かあった時のためである。
区役所と裁判所での親戚捜しが始まり、連絡が取れたという。そこで問題が起こった。私の後見人を認めないという親戚が二人いると言う。
勿論、私は面識がない。お母さんの異母兄弟が数人いることは聞いていた。その方々である。裁判所が、私に会うことを勧めたが会わないと言う。兎に角、駄目であるとのこと。唖然とした。何ゆえにであろうか。彼らは、一度も面接に来ていず、その後も来る気配がない。まして、長い間、付き合いは一切ない。
それぞれの識者曰く、遺産の問題であろうと。しかし、裁判所では、そのことも親戚が優先される旨を伝えたという。
私は、笑った。
事実だけを延べることにする。藤岡の遺産を考えての、後見人拒否であろう。他人に好きなようにされるという恐れであろうか。情けない。私のことではない。彼らのことである。それなりの年を取っているであろう。
一切の付き合いをしないが、貰えるものがあれば貰うという根性である。
もし、少しの人情があれば、お母さんに会いに来る。藤岡の遺骨にお参りに来る。出来ることをするはずである。単に、欲深いだけである。仰天する。
生前の藤岡が、親戚は嫌いである。お金に汚い者ばかりであると言っていた。その通りである。
こういうことを、万事休すと言う。
藤岡の遺産は無い。あったとしても、藤岡の意志は、子供の教育活動のために、寄付することである。あらゆる権利は私にある。
ホームページ等を見れば、何かしら派手に活動していたように見える。CDも出している。いずれ藤岡の書籍も出すと言っている。これは金になると思えたのであろうか。
馬鹿馬鹿しいので、以下省略する。
再度言う。藤岡の遺産は無い。権利は、すべて私のものである。そしてその私は、もうすぐに死ぬ。その後は、藤岡の遺産は世界人類のものになる。
お解りか。皆様・・・