新沈黙を破る 7
240日祭は、5月25日であった。その日、藤岡の命日祭を行った皆様が帰られた後で、私は啓示を受けた。藤岡の活動が始まったというものである。
毎日、藤岡と過ごしていた私には、藤岡の存在が無いということは、自分が無いというものと同じ程の重さであった。
事故当日の朝の喧嘩を私は、心底悔やんだが、悔やみ切れないのであった。いつもの喧嘩だったはずが、事故によって、別の意味を持つものになった。
藤岡も精神的不安定さから、私と別に行動する云々を多くの人に電話で伝えていた。どうしょうもない焦燥感が藤岡を襲っていたのであろうと、今は思われる。
焦燥感、それは藤岡の宿命だった。
もっとも難しいクラシックの世界で生きると決めた時から、それは始まっていたのだ。藤岡程の学歴と、頭脳明晰であれば、どんな会社に入社しても出世コースを行く。あれ程頭の良い声楽家はいなかった。
自分の発声指導のメソッドを作成しようとしていたことも、ホームページの管理人に話していた。イギリスから出版されていたカウンターテナーに関する書籍の翻訳も手掛けていた。ただし、その本の内容が実に陳腐なものであるということで、中断していたが・・・ 焦燥感の唯一の問題は、世の中に出るということだった。しかし、事は簡単ではない。テレビ朝日の題名の無い音楽会という番組から、藤岡のCDを求められて、私は、数枚送り、新たなものも送ったが、ナシのつぶてだった。要するに、あちらは、届いたこともお礼も無く、私にとっては無礼極まりない対応だった。
ある団体にも、藤岡のCDを求められて送ったが、同じ反応であり、通常の常識では理解出来ない対応に、私は、その世界の傲慢不遜を見た。
そういう話は、腐る程ある。
藤岡の焦燥感は、私の苛立ちにもなった。
ゆえに私は、血の流さない革命が必要と思った。
それが藤岡と喧嘩をする元にもなったのだが。
例えば、チケットノルマの無いコンサートを開催すると私が言う。藤岡は、そんな馬鹿なことはしない方が良い。チケットノルマがあって納得して出るのがクラシックの世界の者であると。要するに、私に言わせれば、アホ馬鹿間抜けの世界なのである。お金を出して舞台を買うから、満足するという人種である。
それは藤岡の死後、よくわかった。
結果的に赤字続きのコンサートをして、私は社会奉仕どころか、音楽家に奉仕する、アホなおっさんであった。
藤岡の焦燥感も限界であり、私の活動も限界を迎えていた。
藤岡の遺体を、死後鑑定に送り、私は部屋で泣いた。それは藤岡の死が悲しいことと、世の愚かさにである。
そして私の悲しみは、ある決心へとなった。藤岡の敵討ちである。私が死んでも藤岡の名前を残すということである。それには十分な根拠があった。それは藤岡の録音である。几帳面な藤岡は、多く記録録音を取っていた。それが根拠である。
一人でも多くの人に、藤岡の歌声を聴いて貰うこと。その一点にあった。それが、私の敵討ちである。