新沈黙を破る 8

 自分に命を掛けられない者は、人にも命など掛けられる訳がない。私は、死ぬまで藤岡の追悼コンサートを開催する、藤岡の歌声を生かすことに命を掛けると決めた。

 ところが、おかしなことに、自分にも人にも命を掛けられない者が、追悼コンサートを続けることはおかしいと言う。

 何故か。

 私も、その真意を計り兼ねていた。

 結論から言う。藤岡宣男という死者を忘れたいのであろう。死者を、もう思い出すこともしたくないということであろう。つまり、それは、やましい気持ちがあるのである。

 つまり恐れである。藤岡の霊を恐れているのである。

 それは死んでも人は死んでいないと無意識下で思っているのだ。

 私が言うように、亡くなったが無くなってはいないということである。

 

 人に霊が着く、つまり憑依するということを、無意識の内に知っているのである。

 また藤岡の歌声を、続けて披露するということに対する嫉妬でもあり、やっかみでもあろう。

 一つの例を上げる。真言密教では、弘法大師空海は、今でも生き続けている。毎日、空海に食事を差し上げているのである。空海は、死んではいないのである。しかし、肉体は無い。肉体が無いが、空海は生きているという考え方をする。

 それは正しい。人は死んでも死なない存在である。

 死とは、次元移動のことである。

 ここで、ついに私は、藤岡の死の真相を言う。

 藤岡は藤岡自身の定めにより、事故という形で、この世から次元移動したのである。もっと早い時期に、それを決定しても良かったのであるが、それは藤岡の母親に対する憐れみが、それを遅くしたと言える。

 人は、死ぬ時期も決めて次元移動して生まれてくるものである。

 生まれたくて生まれてくるものである。

 人は何故生きるかなどと、惚けたことを言っている場合ではない。生まれたくて生まれたのである。では、死にたいと思う人は、死にたいと思うことを体験するために生まれたのである。すべては、因果応報であり、自業自得が、宇宙の法則である。

 人が悟って仏や神に成ることはない。人は霊になるのである。仏とか神と言うのは方便であり、仏も神もいない。いる訳がない。

 宇宙は、法則と秩序により、成り立っているのである。それを、神と言うなら言えば善し。仏と言うならば言えば善し。

 

 我は神である、我は仏であるという霊が出た場合、それは全くのウソである。

 仏陀の仏の思想は、仏陀のオリジナルであり、キリストの神の子はキリスト・イエスのオリジナルである。ゆめゆめ誤ってはならない。この世に、神とか仏というものは無い。あると思うのは妄想である。人は死んで霊になり、次元を旅する存在である。

 よって、私が藤岡が生きているように、藤岡のコンサート、及び追悼コンサートを開催するのには、何の問題も無い。藤岡は生きているのである。肉体が無くなっただけである。 ただ、藤岡はこの世のものに捕らわれていない故に、別に私に求めることは無い。しかし、私が藤岡の歌声を残したいということに関しては、何も言わない。沈黙している、または黙認している。それは、私の考え方からすれば、私の死ぬまでの暇つぶしなのであろうと藤岡は知っているのである。

 私も、寸時を待たずに死ぬ。つまり次元移動する。

 後の人から見れば、藤岡も私も同時代に死んだ者となる程度の時間差である。

 人生とは、一笑に付すことが出来る程軽いものである。幾千年、幾万年を旅している霊、であり魂の存在が、人間の本質、本体である。