新沈黙を破る 11

 クラシックコンクールというのは、猿芝居より劣るものである。

 日本で行われるコンクールは、世界と冠しても、程度が知れている。毎年の受賞者の活動を見れば、それは解ることだ。

 更に下ってのコンクールは、橋にも棒にもかからない。

 ある全国的にコンクールを開催している者に会ったが、どうでもいいものであり、志しなど感じられず、ただコンクールを主催しているという自負のみ。コンクール後は、何も無い。本当に何も無い。時に、受賞者のコンサートをチケットノルマを課して成すものもあるが、それのみである。そしてそれの繰り返しをしている。

 どういう訳が、お金を出して出演するコンサートを有り難がり、お金を貰うコンサートを馬鹿にする傾向がある。それは、私が実証した。

 些少でもお礼をすると、その気になってしまうのである。他では、金を払い出演するものには卑下してへいこらするが、ギャラを貰うと横柄になるという不思議である。

 よほど狂っているとしか思えない。実証済みである。

 

 日本歌曲コンクールという、馬鹿馬鹿しいコンクールがある。何せ、審査員も出演者も日本語が解らないという仰天である。

 何故、クラシックの世界で日本語が出来ない程になったのかを、誰も検証しない。ところが、日本の歌で定評があるというソプラノなどもいる。とんでもない日本語であり、風呂の中で屁を吹くような歌を、何と基本だと学校でも取り上げるという仰天である。また、キンキンキラキラの如くの、馬鹿声のソプラノが、芸術選奨などに選ばれるという仰天である。日本語の語感を知らないという、また仰天である。

 何にせよ、選ぶというのは、選ばれるという策略があってのことであり、大衆の好む、馴れ合いと付き合いの賜物であろう。

 それは、声楽の発声ベルカントという唱法にあり、それをすべてであると思い込むアホの所以である。

 日本語をベルカントで歌うことは出来ないと、どうして解らないのか。素人の私でも解るのであるが、プロは解らない。ということは、プロといえど、解っていないと判断する。故に、彼らはプロではないということである。愛好家である。それが芸大、音大の教授をやっているから、仰天する。

 どう好意的に聴いても、ベルカントで歌う日本語は、日本語になっていない。また語感がない。

 馬鹿ソプラノの「からたちの花」など聞けたものではない。からたちの花が吹っ飛ぶような歌になっているが、本人は得意である。

 華僑合唱団が「小さい秋みつけた」を歌った時は、仰天した。小さい秋どころか、とんでもない巨大な秋になっているのである。しかし、彼らは、中国人である。日本語の語感を知れと言っても無理であろう。だが、彼らは許される。しかし、これが日本人であれば許してはならない。

 

 日本の歌の奥義は、母音に行き着くというところにある。

 藤岡の日本の歌の素晴らしさは、子音がすべて、しっかりと母音に戻り、それが響き渡ったのであり、密やかに歌っても、ホール全体に響いたということである。まさに、声楽家である。だから、藤岡から日本の歌が変わったのである。

 しかし、それを認識出来た者は、数少ない。

 畑中良輔は、藤岡の日本の歌を聴いて泣いたというが、それは、ある程度のところで広がらないのである。その話を広げない、広げたくない者が大勢いるのである。

 困るからである。自分たちの歌が藤岡の歌の下になる。まして、藤岡の歌が上手となれば、自分たちには歌えないものであるから、万事休すになる。

 語学も才能であろう。藤岡の場合は、イタリア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語勿論、英語と、古語の英語の語感を十分に捕らえることが出来た。そしてまた、そのために、自分より年下であろうが、同期の者であろうが、藤岡は習いにいった。学ぶべきものがあれば、藤岡は誰にでも習った。

 芸も謙虚な姿勢があってのもの種。

 プロと言われる愛好家には習うが、素人の意見など聞かない者共に、芸の粋など解る訳がない。

 演歌師である私が、日本歌曲を歌うことにする。

 さて、芸術選奨を受けるか否か。私は笑う。