新沈黙を破る 13

 批判されることを否定されるとこだと勘違いする者は、哀れである。

 そして音楽を成す者に多いから哀れである。

 以前連載した「沈黙を破る」には、多くの反響があったが、音楽家が最も、反感を持ち否定されたと感じていた。勿論、若い学生でバランスの取れた考え方を持つ者もいて、先輩たちの、愚かさを受け継がないようにと言う者もいたが、僅かである。

 否定するならば、無視するか、話題にしないのである。また批判をされないで、どうして成長することが出来るだろうか。それとも、私が素人だから、とんでもないと思うのか。 いずれにしても、頭が悪い。

 頭の悪い者に、解れと言っても詮無いことであるから言わないが、きっと、ある程度で読むことを止めたであろう。また、メダカのように皆で、無視するのよ無視と、読むことがなくなったであろう。

 音楽の世界に、このように真っ当に批判した者がいるであろうか。皆、生業で批判やら、おべんちゃらを言う、書くのである。

 皆賢さを装っているから、賢く振る舞うように心掛けている。毒にも薬にもならない。褒めて煽てて、金を得ることが大切であるから、私のように本当のことは言わない、事を荒立てるようなことは言わない。

 そう、皆賢く振る舞うのである。

 しかし、それは賢いのではない。振る舞っているだけである。そしてそのうちに死ぬ。何もこの世に残す事なく、消滅する。すべて消滅すると思い込んでいるから、また哀れである。

 自然の循環の様を見て、自分もその一つの循環に在るとは思わない。

 これから、追々西洋音楽史について書く。それは西洋哲学史も鑑みで書く。

 文献を用いるが、そこに私の霊学を取り込んで、音楽学者とは違う解釈をする。というより、音楽学者は、文献のみに始終するから、結局、ぺたぺたと継ぎ接ぎだらけの本を書いて平気でいる。それをアホな学生が読んで、難しいと思い込む。

 難しいのではなく、音楽学者が馬鹿だということは知らない。よく解らなくて書くのであるから、読む方は、もっと解らないのであることを知らない。そうして、音楽の世界はアホと馬鹿がはびこって、今は、にっちもさっち行かない事になっている。

 知識の多い者はまた、知っていると思い込んで、得意満面に喋る。喋れば喋る程、知識のないことが明らかにされることを知らない。

 私は本当に頭の良い方を知っているが、まず饒舌ではない。しかし、尋ねると、終わらない程の知識と教養を持つ。一つの話題から延々として話が続く。終わらない。識者とはそういう者である。

 テキストを見て話すのではない。すべて頭に入っている。私はその方と話していると、自分が馬鹿になってしまうのである。

 私如きの知識と教養は、吹けば飛ぶようなものである。そして謙虚に成らざるを得ない。 藤岡も、私に取ってそういう相手であったが、藤岡は私に甘えていたので、私は救われていた。要するに許されていた。

 

 さて言う、批判を否定されたと感じるということは、批判される値打ちの無い者であるということだ。藤岡の弟子にも、歌を批判されると、ぐだくだと悩み事を繰り返し、色々と書き綴っていた者がいるが、私は批判される値打ちがない者であると自分から言っていると、それだけで哀れに思った。

 無視されれば、誰も言わない。また、批判の対象にならなければ、誰も言わない。言われるということは、相手にされているということである。

 もう誰も言わなくなった時は、社会的に死ぬ時である。