新・沈黙を破る 17
木村天山
問いとは、哲学である。
哲学とは、問いである。
人が何を問うかによって、その人自身が解る。自分を知るということは、我は何を問う者であるかということに尽きる。
一時期、問題意識とか、危機意識という言葉が盛んに使われた。しかし、人生に対しての問いかけのない者が、問題意識も、危機意識も無い。
タレスの偉大さは、世界すべての原理は何かということを問いかけたことにある。
無益な問いかけである。
イエスも「人はパンのみに生きるにあらず、神の口から出る言葉による」と言う。無益である。そんなことを言っても、食べなければ人は死ぬ。
前頭葉の発達した人間の哀れさであろう。意味の無い人生を生きることに苦痛を感じるのである。
ブッダは人生の無常を得心すれば、この人生の苦から解放されると説いた。
前頭葉の働きである。
生老病死を苦と感じる人間の脳の働きである。動物は、そんなことを考えることはない。人間だけが、意味意識を意識する。
前頭葉は、言葉を扱うためにあるものだ。つまり精神である。精神の在かが前頭葉である。その働きを最初に意識する人間によって、精神が意識された、つまり言葉の世界が意識されたのである。
タレスが看破した「水」の「それ」によって、哲学史が始まる。
自然に目を向けて、自然の働きから学ぶことが最初であった。自然の移ろいを、体験したのである。つまり基礎体験である。
自然を体験することによって、すべの物事が移ろい、そして循環していることに気づく。成長と繁殖は繰り返されて、終わることが無い。自然の生成と変化は、常に一定にして繰り返される。反復し循環する。ブッダは、それを無常と観た。
タレスは、そこから考えを始めた。当時のミレトスの哲学者たちは、自然体験から哲学の第一歩を踏み出した。
ギリシャの思想もまた、タレスの言葉「すべは神々に充ちている」という、偉大な自然を司る在るものへの共感から始まるのである。
神々という言葉がポイントである。神は唯一ではない。多神教と一神教という対立は無かった。初めから、神は神々であった。
旧約聖書の神も「我々は」と語る。
唯一神としたのは、為政者であり支配者のための教義である。また唯一の教えというものも無い。一人一人に前頭葉があるように、一人一人に神が在るのである。
キリスト教が言う三位一体という考え方は、誤りである。父と子と聖霊ではない。父は父、子は子であり、聖霊は聖霊である。そして多々神がいる。
三位一体説は、キリスト教の教派の一つである、アタナシウス派であり、それを為政者によって後押しされたのである。正統ということでの・・・
余談になるが、三位一体とは、日本神道、古神道に言えることである。天人地の考え方である。
天と地を結ぶ者、それは人である。天の神と地の神を結ぶ者、それは人である。
神と神とを結ぶ者が人であり、人は神と同格になり、そして三位一体は成るのである。 イエスが天の父と呼ぶのは、自分の守護霊のことである。守護神といってもよい。ユダヤの嫉妬と怒りの神々のことではない。
イエスは、神を天の父、私の父と呼ぶ。つまり、神ではないのである。神という名称を持つ者は、霊界にはいない。神は、法則と秩序であるから、神という存在は無いのである。便宜上、神と呼ぶだけの話である。
また霊界は、無限ともいえる次元空間であるから、様々な世界がある。
イエスのいう天の父の世界、例えばキリスト霊界と呼ぶとする。そういう霊界である。ただし、クリスチャンがキリスト霊界に行くのではない。キリスト教霊界に行くのであり、そこにイエスはいないであろう。次元と意識が寸分でも違えば、霊界では逢うことが出来ないからである。ただし、例外的に、上の段階の霊界の霊人が、次元の低い霊界の霊人に逢うことは出来る。
今のクリスチャンがイエスと同じ霊界に行くとは思えない。全く、イエスの教えと反したことをしているのであるから、哀れである。
最後の晩餐りの際に、イエスがパンを捧げて、これは私の体、ブドウ酒を捧げて、これは私の体である。これを記念として行えと言う。それを持ってカトリック教会はミサ聖祭を執り行うが、意味が違う。ミサは、後々、教会が制定した儀式であり、イエスが言う、私の記念として行えとは、全く意味が違う。それについては、省略する。