新・沈黙を破る 18
木村天山
さて、カール大帝のフランク王国が統一したのは、現在のイタリア北部、ドイツ、フランスの全域である。
芸術音楽なるものが誕生したのは、このフランク王国の成立と共に始まったといってよい。つまり西洋音楽とは、ドイツ、イタリア、フランスの音楽であるということだ。
西洋音楽史とは、現在のEUの民族音楽史といってもよい。
それが19世紀の大航海時代に、世界中に伝播していったということである。勿論、極悪非道なキリスト教、ローマカトリックの教えと共にである。
史上最強の音楽帝国を作り上げたという人もいる。
カール大帝は、様々な法制を整備して、支配する地域のキリスト教化を推し進めた。支配者にとって、宗教と組むことは、実に簡単に人心を把握出来るのである。
この世に、純粋無垢な宗教などあり得ないのある。どんなに美しく奇麗事を言っても、そこには人を支配するという定めがある。と共に、為政者のために必要な道具でもある。 宗教とは、人の心を救うものであると思っている人は、余程、お人よしであろう。支配されるために宗教団体に入るのであり、それにより、人は、支配されたいという基本的欲求を持つものであるということが解る。
教えに縁したという、ウソにごまかされてはいけないのである。逢い難くして逢った教えという、耳触りの良い言葉を聞いて信じる人がいるから、私は笑う。しかし、私も若い頃は、そう言われて感動したアホである。
知らないというは、罪であろう。知らぬが故に騙される。
カール大帝は、学者、文化人、芸術家等々を宮廷に招いて、文化振興に努めた。そこから、書く音楽文化に発展する。
書く音楽とは、楽譜にするということである。これは画期的なことであった。伝承する歌から、書いて保存し、伝える音楽になるのである。
当時の書き物とは、神のものであった。聖書にあり、聖書と同じ程の価値のあるもの。グレゴリオ聖歌が書かれるという驚嘆である。つまりグレゴリオ聖歌も、聖書と同じと位置付けられる。
恐れ多くも、神の歌、いや、神の声が書かれる。これには、ローマにおける聖歌をフランク王国に広めようとする政治的意図がある。支配者の意識である。
文化的行為というと、何か気分的に良いイメージを持つが、支配者の意図するものを伝える行為として最も有効である。
ちなみに、文化という言葉の意味は、武器を用いずに、人民を支配するという意味である。日本の文化という言葉と、欧米の文化という言葉には、大きなニュアンスの違いがある。
当時の楽譜をネウマと呼んだ。
この楽譜を見て、私は詩吟を思う。詩吟の楽譜と同じである。そういえば、御詠歌もそうである。また謡曲の楽譜もそうである。
歌詞の横、あるいは、下に、みみずのような線を書き入れる。自分の調子の音から上がる、下がる、同じ音を延ばす等々の意味である。
ネウマという楽譜もそうである。五線譜の楽譜のルーツは、また実に簡単なものである。 紙に書くことによって正しく伝える。何をか。歌ではない。神の教えである。つまりキリスト教的に言えば、福音宣教ということである。西洋音楽に一に通じている思想は、それである。
9世紀半ばの「ムジカ・エンキリアディス」という音楽理論書は、重大な出来事であった。これについては、暇な学者が書くので、これ以上は省略する。
ただ一つ、ここでグレゴリオ聖歌を基本にして、もう一つの音階を作るという、オルガヌムという対旋律である。要するに、複雑になったということである。
基本の調子に、別の調子を加えるというもので、当時は、画期的である。短旋律で歌うものに、もう一つの旋律を加えたということで、それは新しい歌の考え方である。つまり、縦の次元が加わったのである。
お解りであろうか。思考とは、そういうことである。短旋律の子供から、縦の次元の大人の思考に成長するのである。短旋律のままでは、子供の思考なのである。
女と見れば、やれるか否かを考えるという思考しか持たない者は、短旋律であり、前頭葉が無いものと同じなのである。
世の中は、短旋律の人間が多いという状況を見て欲しい。食欲か性欲か、支配欲か何か知らねども、兎に角短旋律で生きる者がいる。中には、金のみであるとか・・・
それらを見抜くには、言葉を聞けばよい。言語障害がかかっている。
言葉は精神であるという所以である。言葉の乱れは、精神の乱れである。