新・沈黙を破る
木村天山
短旋律と言えば、声楽家は綻旋律で歌うから、頭の方が疎かになる等々言われる。確かにそうであろう。人は、水に染まるものである。
繰り返しの中に、身を置いていれば、その繰り返しが自分というものになる。
短旋律に浸っているものは、当然頭も短旋律になり、知らずに、アホになってゆくことは、想像に難くない。
例えば、この音楽史なるものも、音楽史のみに始終すれば、音楽史馬鹿になる。
音楽史には、歴史があり、哲学史があり、そして美学等々の思想がある。単に音楽史を追いかけていると、当然、視野が狭くなる。そういうことである。
一つの知識から、放射線上に知識の探求が始まる。だから、知ることによって、知らないことの多さを知り、愕然とするのである。自分がいかに物を知らない人間であったかと。学べば学ぶ程、自分のアホさが解るというものである。
人間は不平等極まりないものである。生まれ持ったものに適わない。持ち声が美しい人は、特別努力をしなくても、美しい。しかし、生まれ持ったものが、才能と言われれば言われる程、そういう人は努力して、より素晴らしくなろうとする。
歌うことは、歌うことに始終しない。歌ことのために、様々な学びをする。
一々面倒なので言わないが、歌うために学ぶことは、無限にある。しかし、頭が短旋律にやられてしまうと、ただ歌うことに始終する。そして、底抜けのアホになってゆく。
アホはアホの意識がないから、滑稽である。
人間は、声を出すと、どういう訳か、自信が持てる。大声を出すと、意気揚々とした気分になる。それが、声楽家の命取りになる。声を出せるから、自分は凄い者なのだと勘違いし、思い込む。そして、堂々として、プライドなるものに支配される。
我は、歌う者なりという、傲慢不遜な顔付きになってゆく。
すると、万事休すになる。
誰も、あんたの歌など聞きたくないし、誰も歌えと言っていないと言っても、解らない。しまいに、一端の芸術家気取りである。
束ねて焼いても、まだまだいるというソプラノなどは、掃いて捨てても、蟻のように湧き上がってくる。
女の愚かさは、男の比ではなくなる。絶叫、絶叫、また絶叫を、歌であると信じ込んで、世に害毒を流す。
日本語の語感を台なしにして歌い、日本の美しい言葉の世界をお届けしますなどのコンサートを開催して、知り合いに褒められて、悦に入っている図は、哀れである。
ベルカント唱法で歌う日本語の歌の言葉が、何を言うのか解らないということに気づかずに歌う様は、猿回しの猿以下である。語感の無い言葉はない。語感は言葉の命である。
言葉は民族の精神であり、命である。そして語感は言葉の命である。日本語には密かな語感がある。密かとは、風情であり、もののあわれであり、奥ゆかしさである。
声楽家の日本語で、唯一私が納得するのは、藤岡宣男の歌であった。
見事に、哀れがあった。それは哀れの慈悲と同じである。
慈悲とは仏教用語である。仏の大慈大悲という。
慈しみと悲しみである。
悲しむことのない人は、慈しみを知らない。慈しみとは、一代や二代で成るものではない。長い転生の過程を経て、身につけてゆくものである。
ちなみに、仏教家が慈悲と言うが、慈悲は、言っても駄目である。慈悲とは、行為のことである。つまり、仏教家に仏教や仏法などない。行為が無ければ空しい。この空しいという言葉も仏教用語であるが、仏教家らは空しさもない。
日本に仏教など無いという所以である。
教えは説くが、行為は無い。ブッダは、人は行為によって成ると言った。行為のない教えは、害になれ、役立たずである。
組織を大きくするためには、努力奮闘するが、仏法の神髄である慈悲の行為を成す者は少ない。
本当のことを言うが、ブッダもキリストも、孔子等々、物を書いた形跡がない。ただ行為したのである。勿論、説教をしたのである。しかし、物を書くことがなかった。何故か、記録されることによって、アホが続出することを知っていたのである。記録を解釈し、行為を成すことなく、それに始終することを知っていた。
最も人間とであるところの前頭葉をによって、滅びることを知っていたのである。
見よ、宗教家の妄想を。教義、教理を在るが如くに信じている。そんなものは、一点も無い。それこそ、無である。空である。
仏も神も無いものである。ただ、風のみが吹く。
この風の在かを尋ねて、彼らは、行為したのである。
ブッダもキリストも孔子等々も、耕すこともすなどることもしなかった。無益な行為を繰り返した。無益なことと知っていた。ただ一点、この世の物を一つも所有しなかったのである。以下省略。