新沈黙を破る 20

木村天山

 さて、学者というものは、気楽なものである。文献を読みあさり、少し手を入れて論文を書く。そして、教授する。一度書いたものを一生使う馬鹿者もいる。

 人の良い学者もいるもので、当時の修道院について、実に好意的に表現するものもあり、私は驚く。

 ゲルマン人の大移動による、混乱の中で国家も国の指導者も、苦しみの中にある人々を救うことが出来なかったが、教会が、その役目をしたという。だから、法王という国家を超越した地位というものが確立したというのである。

 苦労しない人は、こんなことを平気で書く。または、クリスチャンの先生であろか。

 さて、私は言う。中世は暗黒であったというが、現在に至るまで、歴史は暗黒である。愚昧と迷信に充ちている。

 当時は戦争と混乱、流浪の人々、そして極め付けは、ペストの大流行である。590年。無知蒙昧な人々は、神の祟りと恐れたのか、または信仰が薄い故かと、佇んだであろう。

 そんな時に、ベネディクトが建てた修道院が、救いとなる。生活出来ない人々が、共同生活を営む場所である。その修道院は100を越えていたという。その中に入れば、食うことは出来る。兎に角、人間は食べなければ死ぬ。

 自給自足の修道院は、兎に角食うことが出来たのである。

 今、現在の修道院とは、意を事にする。清らかな人々が神への信仰だけに生きる、美しい場所、それが修道院であるなどと思っていると大変なことになる。

 今でさえ、そんなところではない。古い歴史を持つ修道会であればあるほど、腐っている。比較的新しい、マザーテレサの修道会などは、まだ救いがあるだろうが・・・

 

 矢張り法王もペストで死んだ。ペラギウス2世である。その後に法位に就いたのが、グレゴリオ聖歌の生みの親、グレゴリウス1世である。彼は、33歳でローマの支配者になり、それを終えると、世の惨状を見て、財産を投じて7つの修道院を建て、自らも修道士となり、乞われて法王になると、「神のしもべの中のしもべ」として、人のため教会のために尽くす。時に歴史は、このような立派な人を生むのである。

 後に、大教皇と言われる程の活躍をしたのである。

 

 教会創成の頃、何事も初めは純粋無垢が実行出来る。

 それは権威とか、権勢とは関係なく、隣人愛の行為である。信仰は、時に正しく行為される。行為すること、それ自体が信仰になる。そしてそれが本当である。無為の行為、報いを求めない行為、それが信仰の行為である。信者を獲得しようとする愚昧で狡猾な行為ではない。単なる善行である。そしてそれを、善しとする。

 すべては、人がすることである。神や仏がするのではない。神や仏の威光さえ、人がする。どれ程崇め立て奉っても、神や仏は何もしない。というより、無いものなのだから、するはずもない。

 ローマ法王は、神の代理者と言われる。が、神が無いのであるから、代理者も何も無い。あるのは、人の妄想である。

 人は、支配する欲望がある反面、支配されたいという欲求もある。孤独を好んでも、集ういう欲求がある。徒党を組みたいとい欲求がある。それが宗教団体であり、組織である。 やくざも一人では行動しない。徒党を組む。チンピラも一人で行動しない。徒党を組む。 そして数が多ければ多い程、正しいと勘違いする。悪巧みする者も、数が多ければ安心して行動する。人が集うということに、誤りがある。

 人は独りで成る者である。

 人間は独りの行為で、完成する者である。

 つがいで、成るものではない。結婚という制度も、為政者のためにある。

 雄と雌でつがいになり、子をもうける歴史は浅い。それ以前は、気の遠くなるような長きにわたり、単体で分裂して子孫を増やしていた。

 

 規則を決めると、安心するのが愚かな人間である。自分で作った規則さえも実行ではない者が、集団で作る規則を守れる訳がない。

 汝、殺すなかれ、汝、姦淫するなかれ、汝、盗むなかれ等々、出来ないから規則を作る。そして、出来ないことを嘆く。その繰り返しが、人類の歴史であった。

 掟になった途端に破られる。

 モーゼの十戒とは、笑わせる。単純未熟な人間だからの戒ではない。すでに十分にそれが守られないからの戒である。

 お解りか。人間とは、愚かなものである。