新・沈黙を破る 23
西洋音楽史を記すにあたって、西洋哲学、歴史、美学等々に目を通している内に、西洋とは、なんと饒舌な文化であろうと、感心した。
言葉を投げ捨てて前に進む。決して完結することなく、延々として終わりの無い思考を持って繰り返す。インドの賢いと言われる人々も同じだが、これ程、言葉に翻弄されるとは、気の毒である。
言葉のための言葉を生みだし、それを善しとする。
だが、不思議である。言葉を書き残さなかった者、ブッダやイエスや孔子は、多くの言葉で論じられている。ここに何か秘密がある。
言葉による者は、言葉によって滅びるという法則を知っていたのであろうと思われる。実際、言葉の多くを残した者共はすべて滅びている。
一時期、西洋でもギリシャに帰れという連中が出た。
ギリシャの純粋素朴さにである。あれでも、純粋素朴なのである。ということは、どれ程、言葉の多さに難儀したであろろう。そして、弁証法という悪夢に陥った。それのクライマックスが、マルクスであろう。ただし、ここではこれ以上、それに触れない。いずれの時にまた。
音楽は振動であり、波動である。
しかしそれは単なる波動ではない。波動に乗せて伝われものがある。伝えるものがある。 日本の伝統的感情「もののあわれ」が仏教から影響を受けたというのは間違いである。 古神道の「清き明き直き心」は表である。限りなく快活な心の解放である。と共に、人は肉体を持つが故に、肉体の悲しみを負う。それが「もののあわれ」の原点である。
肉体を否定する思想は、不全である。
仏教により、言葉の世界が飛躍的に広がったという考え方があるが、情緒は、そんなものではない。言葉は精神を作るが心は伝統が作るのである。
心の在かは、水落の下にあり、心は呼吸と共にある。呼吸は心の写しである。
呼吸を整えれば、心が整う。日本の伝統芸能は、それを持って成す。すべての所作は、心を整えるものであった。武道も芸道もそうである。そのものが目的ではない。それを通して、心の世界に分け入ってゆくのである。
短旋律の歌に乗るのは、心の波動である。心空虚であれば、歌も空虚になる。技は、心を現す手段である。がしかし、日本の声楽家といわれる人々は、技のみに始終する。伝えるものを持たない芸は、単なる芸物であり、芸事にはならない。
言葉を発することも音楽に成り得るということを知れば、語りも音楽である。日本語は長く伸びるのが特徴であり、ベルカントという唱法では、日本語の微妙なニュアンスが壊れる。日本語には、日本語の発声がある。
芸術が創造であるならば、そろそろ気づくことである。再現芸術である歌は、創造の意欲をかき立てるはずであるが、西洋の言葉の響きのみに捕らわれていると、創造にもならない。
フランス人は、日本語をハエの飛ぶような音と言うが、彼らの言葉は、日本では、風呂で屁を放ったような感触である。こうしてあら捜しをすれば、いくらでも出てくる。その前に、良さを探せば、また違ってくる。フランス語で、愛や恋を語れば、雰囲気が出る。ドイツ語は、気合が入る。イタリア語は、快活な気分を醸し出す等々。
ハーモニー、調子によって、それぞれの感情を表すということは、ギリシャ時代から理解していた。
ギリシャ旋法は、音階の七つの音のそれぞれから下降するオクターブの音で、七種類の旋法(音階)をもっていた。それぞれギリシャの各地の地名がつけられて呼ばれた。
ヒュポドリア(荘厳で落ち着きがある)ヒュポフリギア(能動的)ヒュポリディア(放逸で肉感的)ドリア(男性的で好戦的)フリギア(刺激的)リディア(悲しみに充ちた感じ)ミクソリディア(悲愴でもの悲しい感じ)
以上であるが、言葉それ自体にも民族的潜在性の感情的意識がある。