新・沈黙を破る 24
祈りの歌、グレゴリオ聖歌は、聖書と同じく神聖なものとされる。
祈りの言葉を歌にすることによって、祈りより優れたものであると信じられるようになる。クリスチャンならば理解するであろう。歌は、祈りの何倍の効果があるということを。 結局、黒人霊歌などもそうだが、神を賛美する祈りの歌は、祈りの言葉以上に、効果を上げる、また期待出来るのである。それは、歌うという行為にある信仰の昇華と、私は考える。
それと同時に、聖歌は信者をまとめるに絶好のものとなった。歌を支配することによって、教会の支配もし易くなるのである。
グレゴリオ1世が、これを使わない手はない。
6世紀の終わり、彼は聖歌を定める。定めるとは、命令である。法王の命令が教会を走る。何故、ローマ教会が絶大な力を持つに至るか。国王をも超える力、信仰とは凄い力を生むのである。これを理解出来なければ、欧米を理解出来ない。
いずれ、追追とローマカトリックについては書く。
祈りの歌は、純粋旋律である。伴奏する和声を必要としない。現在聴く音楽のように、簡単に拍子を取れるものではなく、浮遊し、音のアーチをなして無限に続く音であり、声である。それは魔術的にも似て、人の心に神を感じさせるに十分な力を発揮した。
前回、ギリシャの旋法を紹介したが、教会もそれを利用し、その中での祈りの歌の旋律は、三つある。
歌詞を音に合わせる方式によって見分けられる。シラブル型はもっとも単純な様式。歌詞の一音節に一音符があてられる。ネウマ型は、一音節に数個の音符をあてる。メリスマ型は、一音節に対して多数の音符のシリーズ全体があてられるものである。
もっとも単純なシラブル型は、歌詞の意味が大変重要である時に、幻想的なメリスマ型は純音楽的で情緒が溢れる時利用された。
それらがいずれカトリックのミサの形式の中に取り込まれて純然たる形式を作り上げるのである。およそ1000年頃、それが確立されたと言われる。
ミサとは、最後の晩餐の写しである。イエスが、パンを体、ブドウ酒を我が血として、これを記念として行えと命じたままに、教会は、その形式を確立した。
このミサの形式の元に、カトリックは巨大教団として君臨するのである。
宗教に儀式はつきものである。それは信者がまた求めるものでもある。儀式は、神のためではなく、信者の精神的満足感のためにある。あらゆる宗教にそれは言える。
ミサ聖祭制定がイエスの言葉にあるとは、教会の考え方である。私は、イエスのこれを記念してて行えという言葉を、別に解釈する。
ルターが始めたプロテスト、つまり抗議する運動は、プロテスタントというキリスト教一派を作ったが、厳密に言えば、それはユダヤ教原理主義に陥ったと同じであるが、ルターは新しい革命だと勘違いした。
聖書の言葉のみ正しく、神は一人一人との対話に在ると。しかし、彼らも教会を作り活動を始めた。組織を作らざるを得ないのである。
日本では、内村鑑三のように無教会主義を名乗る者もあったが。プロテストは、如何なる形でも良い。例えば、私が木村教会を任じても良いのだ。
さて、イエスの言葉の意味である。これを記念としてとは、パンを体である、ブドウ酒を血であるとした儀式ではない。記念とは、イエスの行動、行為を行えということである。 つまり神の国が近づいたという宣教である。
いつも神の国は近づいている。
いつでも、回心のチャンスがあるということである。神への回心。それは我が身への回心でもある。
ピラトに「あなたの国はどこか」と尋ねられて「私の国は天にあり」とイエスは答えた。それにより、ピラトはイエスに罪を見なかった。この地上の国ではないのである。政治犯ではなかったのだ。
イエスが言う、天の国とは、魂の自由である。信仰とは魂の自由を言う。神とは、その自由の別名である。我が父とは、イエスの守護霊、及び守護神である。私の国にというのは、霊界のことである。
私の父の元にとは、霊界に入るということであり、誰もがイエスの父と同じ霊界に行くのではない。それぞれの波動に合う霊界に入るのである。それを神の国と言った。それ程、霊界入りする人は少ない。ではとこへ行くのか。魔界である。魔界は、霊界の地獄でもない。質も次元も違う世界である。
ユダヤ教から出たイエスは、ユダヤ教の神の正体を見破っていた。嫉妬と怒りの神が、神といえるものではないことを。愛の神を伝えたイエスは、画期的過ぎた。殺される訳である。ユダヤの神と、直接対決をしたのである。
欧米にはイエスを超える人間が現れていない。霊能力とその行為である。イエスは、書き物を残さなかった。その後のイエスの教えは、すべて弟子たち、及び弟子たちから聞き及んだ者によって成された。
一流の人間とは書き物は残さない。言葉にすることはウソになるからである。
いずれニーチェの思想を書くが、ニーチェは音楽は言葉を超えると知っていた。言葉にしないもの、それが真実であると。そのニーチェを更に言葉にして解釈解説する者がいる。学者と言われるアホ共である。