新・沈黙を破る 25
いずれ書くと言ったが、ニーチェについて触れる。
それは、イエス・キリストもブッダも孔子も、聖人賢者は書き物を残さない。それをニーチェの言葉から観る。
「われわれは書かれ得るところの事物を永遠化する者であるが、いったいわれわれ独りだけの力で何を描くことが出来るのであろうか。ああ、われわれが描くことの出来るのは、いつも、今まさに枯れしぼもうとして、香気が失せかかっているものに過ぎない。ああ、いつもただ、疲れ果て遠のきつつある雷雨や、黄ばみ萎びた感情ばかりではないか。〜われわれが永遠化するものは、もはや生き得ないし、飛び得ないもの、疲れ果て弱り果てた事物はがりである」
表現されたものは、もはや真理ではなく、永遠化されたものは、永遠化に値しないものばかりである。真理とは刹那にしか顕示しない何かである。それは言葉であって、言葉を超える。
主イエス・キリストは「私の言葉は世が滅んでも滅びることはない」と言う。キリストの言葉は、書かれたものではなく、行為なのである。キリストは、書くことをしない。
ソクラテスも、キリストも、アリストテレスも、彼らが語った言葉は、行為であり、書き物が必要ではなかった。
ブッダは、人は行為によって成るとは、そのことである。
今の言葉で言えば、書物にすることが文化ではなく、生き方、それ自体が文化であった。 実は、文化というものは、武器を使用せずに、人民を支配するという語源があるが、文化的行為とは、自然と同じく、それを言葉にして表現し得ないものである。
簡単に言う。木という言葉は、木を表さない。実は、木という言葉はあっても、木という物は存在しない。厳密に木というものは、今、そこに指さす木がある、それしかない。言葉は、自然の多様性と個別性を無視することによって成り立つ。
ニーチェは言う。
「自然とは、われわれに近づきがたい、定義しがたいXなのである。」
言葉によって、木そのものに到達することは出来ない。人間が言葉を用いる存在であるが、言葉は真理、真実にあらざるものであり、それを用いて真理、真実に到達することは無いのである。
「言葉は事物の、それら相互の、また私たちの相対関係にとっての象徴にすぎず、絶対的真理にはなんらふれるところがない」
故に、聖人賢人は、書き物を残さないのである。書くことはウソになるのである。
ただし後に、ニーチェは狂いの霊感を受ける。そして今度は逆に、言葉の方から、ニーチェに語りかけるのであるが、それは後日にする。
言葉に幻惑され、言葉になるものをのみ、真実と思う現代の病は、絶望的である。
言葉の多い人を賢いと思い込み、本を書く人を立派と思う勘違いが横行する。
この世に確実なものは行為以外に無いのであるが、それを知らない。饒舌な者が、世の先端を進む。饒舌に語る諸々の集団が世の中にその存在感を示す。人は、ごまかされていることを知らない。
結局、言葉で表現し得たものを文化と信じ込む愚かさである。
行為を見よ。行為にこそ真実があり、真理がある。
だいこん一本を育てる人を、言葉をより多く使用する者より、劣っていると思い込む病に陥って、久しい。美味い肉を食うが、それを食える自分が、牛を殺す者より、偉いと思い込む病に陥って久しい。
私は言う。何を成しているかによってしか、その人を判断出来るものは無い。
哲学も芸術も、人が敬意を払う残存するものより、命懸けで漁をする漁師の、その行為が真実であり、その真実が刹那であることを知る人は、救われる。
未来永劫に残るものは、行為のみである。
「世が滅びても、私の言葉は滅びることがない」イエス・キリストは、言葉を行為と同義語で使ったのである。
本を読んで泣いた感動したという人が、行為的になったのか、私は知りたい。言葉の撹乱に酔っただけであろう。そうして人は騙され続けている。
耳触りの酔い言葉に、信じる者になって騙される。騙されていることを知らずに生きて死ぬ。こうして救いようのない馬鹿というものがいるのである。