新・沈黙を破る 29

木村天山

 音楽史を少し休憩します。

 藤岡宣男の追悼コンサートを、一年間続けることが出来ました。

 言った通りにするという当たり前のことを私はしました。

 一度もコンサートに来ることなく、批判をする馬鹿アホ間抜けは、勝手なことを言いますが、哀れで哀れで・・・

 藤岡亡き後、矢張り私は確信しました。クラシックコンサートは、大半が練習の発表会であること。下手くそは下手であればあるほど、歌いたがるということもです。歌だけではなく、ピアノ弾き等々もです。

 お金を払えば出られるのですから、本当におめでたい。

 日本にプロが育たない訳です。

 未だに、日本語を絶叫、叫びで歌うアホも多く、私は感心しています。

 それも何と、藤岡の指導を受けた若い(馬鹿い)ソプラノも他の指導者について、あの美しい声をおばさんの声にして、歌が人を殺しに行くような恐ろしいものになってしまったという現実を見て、哀れ哀れです

 本当に音楽家を目指すならば、音楽史をしっかり学ぶことであると、音楽史を書きつつ思います。馬鹿、アホでは音楽家になれません。

 思想、簡単に言うと想いが無ければ、何事も虚無になってしまいます。

 伝えるものを持たない芸は芸とは言えないのです。それでは何を伝えるのか。

 あなたは、その歌で何を伝えたいのか。新興宗教に入っている人は、その信仰を伝えたいと言うでしょう。それでもいいのです。伝えたいものがあれば。

 ところが、全く無い。驚くことに、音程だの響きだの、その他諸々、ど てもいいことに気を使い、最も大事なことを知らないのです。

 声楽家でもクラシックを抜けて、ミュージカル等に行く人は、本当に賢い。歌そのもので聴かせるというのは、命懸けです。

 この頃、美しい日本の歌をと、声楽家も合唱等も掲げていますが、歌は美しくない、顔は醜いと、ウソばかりです。

 何せ、日本語の語感を知らない。日本語の語感を知らない者が、またイタリア語やフランス語等々の語感を知ることもない。

 私には、日本語の音が皆、オーエーオーエーと聴こえます。

 あれは西洋人になって歌えと教えられているのでしょうか。

 兎に角、指導者が馬鹿アホですから、万事休すです。

 

 日本語の伝統である万葉集さえ朗詠出来ないのですから、話になりません。

 自分に酔うのはいいですが、一人で部屋で酔って欲しいと思います。

 藤岡は自分に酔うこともなかった。淡々として歌い、舞台を去った。見事です。

 立つ鳥後を濁さずです。老いさらばえて、後を濁す者共ばかりのクラシック界を、私は笑います。

 ただ今、権威あると言われている人は、死後、即座に忘れ去られるでしょう。毎月追悼コンサートなど誰もしません。

 

 さて、私は、この地にいる限り、藤岡の追悼コンサートを続けます。

 追悼という言葉を用いずとも追悼コンサートに変わりありません。私がやると言えばやるのです。天地が滅びても、私の言葉は滅びないとキリストは言いましたが、私も同じです。そうキリストと同じです、やると言えばやるのです。

 クリスチャンは、キリストを主と呼びつつ、主になりませんし、なれません。キリストになれないからです。キリストのように生きられないからです。自分に信仰など無いことを知らないのです。キリストになればいいものをと私は思います。

 クリスチャンだけではありませんね。皆、信仰を持つ者がそうです。仏になればいいものをならないで、念仏、題目を唱えているという愚を知らない。

 だから私は、皆ウソであることを知っています。

 励まし合って組織、教団を大きくすることを信仰だと勘違いしている信者に哀れを覚えます。

 さて、西洋音楽史を書き、私は、再びやり始めます。何を。

 日本のクラシック界を変容させます。