新・沈黙を破る 31
木村天山
実際に鳴る音楽、ムジカ・インストゥルメンタリス、つまり楽器や声楽の音楽が、現在の音楽と言われるものであるという、ボエティウスの認識は、音楽を知識の対象とする。音楽は理性と感覚によって音の響きの多様な高低関係を調べる学問であるということだ。つまり、当時の音楽は、演奏する歌うということより、哲学することを重要視していた。「音楽のための、音楽に即した理性的思索に従って判断する能力を有する者」と言われた。
ここは非常に重要である。
音楽美学そして、音楽教育学は、この延長にある。
素人の私は、実に納得したのである。
「もし、芸術家が、その創作時に感じたままを表現しているのだとしたら、その「作品」が芸術的になることは、まずないであろう。それには、芸術作品が情緒のしるしと区別されるために不可欠の、それだけで表現性に富む美的特質がないことになろう。特定の行為が情緒の表現としてすぐれていればいるほど、それ自体が表現性に富む美的特質をもっている可能性は少なくなるわけである。表現性豊かな美的特質の創造には、熱烈にそれに打ち込むことは加えて、コントロールのきいた思考から生まれる「苦心して作り出す」過程が必要なのであって、そのような思考は情緒的な吐き出しとは無縁のものである。」
(ベネットメリーマ、音楽教育の哲学)
上記の、「理性的思索に従って判断する能力を有する者」それが音楽家であるということだ。音楽家とは、哲学者と同じように思考し思索する者を言う。これならば、尊敬に値する。
野蛮な人種の野蛮な音楽というクラシックの大本に、このような考え方があったのである。すべてはギリシャ哲学から出る。再度、ギリシャ哲学の再考が必要であろう。
声を出す前に、楽器の練習をする前に、まず哲学書を読むことである。アホは音楽は出来ない。これがはっきりとした。
実は、私は藤岡が残した書物を参考にして、これを書いている。藤岡の学んでいたことが、実に重大なことであったと、いまさらながら感心する。
藤岡は教育学が専攻である。教育学とは、嘘八百の学問である。学をつければいいというものではない。人の教育に方法は無い。あるわけがない。人は百人百様である。
教育学というものは、教える者が学ぶ。いかに教育するのが理想的か、また教育を考える哲学を学ぶ。要するに、暇つぶしである。そんなことをしていられない程、切迫している現実を知らないから、平気で教育学などと言ってられる。
現場の教師の実情を知らずに、大学では、教育学なるものを教授しているアホがいる。そしてその結果は、見事に、学習塾に追いやられた。教育学の教授は、皆辞職すべきである。アホも休み休みである。
教育とは何か。読んで字のごとしではない。教育とは、強制である。
それを知らない。知ろうとしない。
教授という、馬鹿アホ間抜けである。
教育者にロクな者がいない。食うために、やっているだけの話である。
藤岡の友人、同期生で教授になった者が多いと聞いた。皆、藤岡より劣る者であることは歴然としている。藤岡が、それを言ったのではない。私が、それを即座に感じたのである。生計のために教授になる程、哀れなことはない。
物を教えて金を貰いということは、血の滲むような努力と忍耐力が必要である。学生に教授、恩師と言われて、平然として威張っているような者は、自害して果てた方が身のためである。
死後、抹消されることは必死である。