新沈黙を破る 32

木村天山

 「演奏会場での演奏家の「解釈」が自己表現に近くなっている場合は、特に聴くに耐えない。われわれは、情緒的な自己表現の傍観者になるために、音楽会に行くのではないからである。それは作曲家であろうと演奏家であろうと同じことである」

 「音楽が「情緒の表現」にとどまっている限り、非美的である。音楽に対する反応が「表現された」ものと思われる特定の情緒に対する反応である限り、その反応は非美的である。教授に際して「自己表現」が音楽の中で起きているという印象を与えたり、音楽を扱っていて「情緒の表現」を助長したりする限り、その教え方は非美的である。これらの事実は「情緒の表現」のなしえないことをする音楽の独特な能力の基礎になっているのである」

 「情緒の「言語」としての、さらに、情緒の「表現」としての音楽という概念を放逐すれば、論理的に、次ぎは音楽の理解に向かって一歩進むことが可能になる。すなわち、音楽が情緒を扱うという概念の追放である」

 「人間の経験はすべて、主観的感受性に満ちている。〜われわれの感情は、肉体的、知的存在の表面を覆っている別の要素として、人間存在に「付随している」だけのものではない。感情は、われわれの存在そのものとわれわれの行動のすべてを浸し、われわれの存在と行為のすべてと不可分のものである。人間の状態の本質は主として感情の本質なのである」

 (ベネットメリーマ、音楽教育の哲学)

 

 結果的に「芸術は、人間が主観的現実を探求し理解することのできる手段である」となる。「人間の感情の形は、言語の形よりも音楽の形の方にずっと合っているため、音楽は、言語には不可能なほど詳細に、真実に、感情の本質を表し示すことができる」のである。

 これ以上を追求することになると、人類学、文化人類学の分野に入ることになる。

 原始的感情の表現は、言語ではなく、音、描くこと等々の原始芸術的行為といえるであろう。

 実際、縄文土器などを見ても、それは実に芸術的と評価できる作品である。実用的のみならず、そこに描かれる文様は、芸術と呼ぶに相応しい。

 原始的楽器のアボリジニのディジュルドゥーなどの演奏も、芸術であると言える。それは言語を超えて、感情の表現であり、なおかつ、より深く感情を吐露するものであり、それはまた、祈りの感情にも昇華してゆくのである。太鼓の演奏もしかり。

 

 言語が複雑であるから、優れているのではない。古代の人と現代の人の感情的行動に大きな差は無いと考える。

 再度言う。教育とは何か。教育とは、強制である。

 それは、風土や民族、部族の感情を昇華する伝統を踏まえての強制である。生きるための方法である。教育とは、いかに生きるかを問う姿勢を、いかに生きるのかを考える姿勢を強制するものである。それは伝統的、民族や部族の子孫に対する愛の行為である。

 その上に学問という世界が広がる。

 学問は視野の広がりを促すものである。広く万国を見つめる行為である。人間の多様さを知る行為が学問であり、それは決して偏狭に陥るということではない。科学という学問でさえ、そうである。簡単に言えば、知らないことを知ることである。

 学問は、進めば進むほど、その茫漠たる知的無限の世界に佇むものである。それは謙虚さを生む。学問は、人間を謙虚にするのであり、それはいずれ霊界に戻るために必須な学びである。霊界に通ずる謙虚さを身につけることである。

 この世の次元は現象の次元である。霊界は実相の次元である。

 現象とは、写しである。何を写しているのか。この次元の上の次元を写す。この次元を包んでいる次元を写すのである。