新沈黙を破る33
木村天山
ただ今、私はノートルダム楽派の話まで進んだが、それは大きく括れば、フランスの音楽ということであり、また音楽は、数学に準ずる学問という意識であり、そして、音楽は、教会権力の枠の中あるものであるということを言う。
教会権力とは、教会の教えである。キリスト教の教えに音楽が従っていたということ。三位一体説が採用されてから、三という数字は、絶対的な力となった。
本来は迷信といってよいが、教会は、父と子と聖霊の三位一体であると宣言したのである。今でもそれはカトリックの教義としてある。根拠は無い。
だから、三拍子が正しく、二拍子が出た時には、神への冒涜であると判断した。
頑固は頭の悪い証拠といったが、中世は頭の悪い者が大勢いた。特に、聖職者と言われる者にである。
今でも、一つの教えを信奉する者は、頑固である。唯一絶対と思い込む。思い込まなければ生きられないのである。そういう因縁を持つ者である。
善と悪を明確に分けて考えられた暗黒の時代である。教会が善であり、それ以外は悪である。それはそれは恐ろしい明確さである。
異端として退けられた途端に、生きる術を失う。異教の教えを信奉する者を、悪魔憑き、魔女として、火あぶりの刑にする。異端の者は、人間ではない。
人間主義であるはずの教えが、その行為は逆になる。その反省に立てば、世界中でカトリックが成している、といっても教会がしているのではない、信者が勝手にしているのだが、福祉活動などは、その頃の償いとしても、足りないのである。
楽しむ音楽は無い。音楽は神に奉仕するものであり、神を表現するものであり、神を賛美するものであり、神を説くものであり、神を現すものである等々、教会は、絶大な権威を持って、音楽を従えたのである。
これを野蛮と言わずして、何を野蛮というのだろう。
だが、中世後半になると、オルガヌムから生まれたモテットというジャンルが現れる。
グレゴリオ聖歌の低音に置き、その上に自由に考案した三声の旋律を乗せるのだが、新しいのは、ラテン語の聖歌の上に、フランス語の歌詞を乗せるものである。
最初は聖歌の内容をフランス語にしていたのだが、そのうちに飽き足らなくなり、勝手な作詞をして、歌うことになるのだ。
一般の人には、聖歌のラテン語は解らないのである。しかしそれが教会の狙いで、神を感じる音という意義を持って歌わせていた。
ところが、その上に、フランス語で恋やら、愛の交歓やらを作詞して乗せた。低音にグレゴリオ聖歌があり、その上にフランス語の俗曲が謳われるという不思議である。
庶民の強さは、こういうことであろう。
江戸元禄時代もそうであった。爛熟した文化は、体制批判でもあった。
動きの取れない体制の中で、唯一、遊びの中に、生きる意義や、体制を超える思想等を紛らわせて、パロディにしたりするという行為である。
信仰深い人々のみが生きているのではない。教会の頑固な教えに、うんざりしている者もいるのだ。法王も人間であろうという、バランスの取れた人間観である。
天皇は、現人神であるという軍部の作り上げた国家神道の教えに、天皇だって人間だろうと思う者もいた。当たり前である。生き神など、この世にいる訳がない。
ちなみに、モテットとは、フランス語の語源である「言葉」という意味である。
楽しむ音楽を成した人がいたことにより、歴史は救われる。ただし、その中には聖職者もいたであろうことは難くない。いつの時代も名ばかりの者がいる。金で買った聖職者の立場を利用して、淫乱快楽に身を委ねていた者は多い。
いやいや、真っ当な聖職者でも、男子修道院にて、男子同士の愛欲に罪の意識を感じつつ、淫乱快楽に身を委ねていた者も多い。そうでなければ、頑固一徹で、異端にある者を人間とは思わず、殺しまくっていた者もいる。目の色を変えて異端を取り締まることに命懸けの者である。
ああ、中世である。