新沈黙を破る 35

木村天山

 ルネッサンスへ向かう前に、中世の哲学史を観る。

 ギリシャ哲学を元とする哲学が、中世において、どのように展開していったのか。

 音楽史でも、通称の歴史といわれるものも、そのそこに流れるのは哲学や思想である。それが根底にあっての、歴史である。西洋哲学は教会により神学という分野も生むことになる。哲学の先にあるものが神学なのか、全く哲学とは別物なのか。

 無いところからは何も始まらない。有るところから始まる。最初に言葉を発した人から、それが始まる。それが生成発展して大河を作る。何事もそうである。

 タレスから始まった問いかけから、ギリシャ哲学が始まり、それが中世の精神として生成発展する様を観る。

 中世期を通じて繰り返し引用されたのは、ボエティウスの「哲学の慰め」である。

 「永遠は、無限の生命の、全体的で同時的な完全な所有である。それは時間的なものとの比較によって、よりあきらかとなる」

 彼は、古典古代の哲学を中世に橋渡しする最後のローマ人であり、アグスチヌスと並ぶ、最初のスコラ哲学者となった。

 重要なことは、彼からキリスト教神学であるスコラ哲学の、トマス・アクイナスに続くことである。

 上記の文章は、永遠にはじまりも終わりもなく、時間によって終わりがあるという。永遠と時間の問題である。永遠を神と置き換えると神学になるのである。

 「神について「つねに在る」といわれる場合、それは、いわば、すべの過去において存在し、すべの現在において存在しており、すべての未来において存在するであろうというただひとつのことを意味する」

 「神が「つねに在る」のは、つねにが、神においては現在の時間におけるそれであるからである。そして、「いま」である。すなわち、いわば流れている私たちの「いま」は。時間と恒久性をつくり、これに対して、永続し、動かず、立ち止まる、神の「いま」は、永遠をつくるのである」三位一体論

 トマス・アクイナスは、存在そのものである神だけが永遠であり、永遠それ自体なのであると、言う。

 つまり、神はそうして哲学者によって創られのである。

 

 時間が流れていると感じるのは、私である。しかし、私が流れてはいない。時間と共に私も流れていると思うのは、錯覚である。とは言うものの、私は、どうも老けてゆく。さあどうする。年齢は、単に地球が太陽の回りを一周したことで、一年とするだけの話であり、それは地球と太陽の関係である。それが私とどんな関係があるのだろう。時間とは何であろうか。こうして哲学が始まる。

 中世哲学はキリスト教哲学へと向かうのである。まあ結局、西洋はキリスト教との対決、対立、受容の中での話である。

 存在者の、つまり神の存在は、在ることと、在りようの両義性を持ち、存在自体が二つの意味に依存している。

 「いっさいの善のなかでも最高の善であり、他のあらゆる善を包含する善である」と哲学の慰めにある。プラトン的な前提が、彼とアグスティヌスによって、中世の哲学の総体を創るのである。

 ちなみに、ボエティウスはアリウス派のキリスト教徒であった。異端とされる宗派である。正統派として皇帝に認められたアタナシウス派の三位一体説を、何故説いたのか。

 彼の「カトリックの信仰」には旧約から新約へといたるキリスト教の信仰が要約されている。451年のカルケドン公会議の正統派の三位一体論を擁護する。プロテスタントのバッハがカトリックの典礼の形で宗教曲を創作したのに似る。

 ともかく、彼から、トマスへ、そしてロックへカントへと継承されてゆく「理性的な本性をそなえた固体的実体」を説いたのである。「人格」の古典的定義を与えたのである。 

 西洋哲学が、神なるものを創作してゆく過程、そして、それと格闘することによって成り立たせた過程がある。実存主義も、キルケゴールによって、結局神へと帰結してゆく。その神の呪縛から放たれるには、ニーチェを待たなければならなかった。

 一時期、日本の知識人たちが、日本人は西洋の思想である神との対決が無いゆえに、煩悶するほどの思考を経験しなかったというが、全くそんなことは無い。

 言葉遊びに始終する西洋の哲学なるものではなく、日本の場合の思想は、現実生活、現実をどう受け入れて、どう生きるか、そして、商売を成り立たせる心得はと、実に、現実主義である。それはイスラムに似る。また、唐心に対決した国学の皆様である。

 唐のものは理屈はがりこねる、しかし我が国は理屈ではなく、男女の愛情と性愛の機微に「もののあわれ」を観たという本居宣長。私は、それを発展させて、古神道を提案し、提供している。

 藤岡の歌に「もののあわれ」があったという評価をしている。

 それは孤を徹底的に意識したものである。人は、独りで成るものであるという確信が、人生を観る時「もののあわれ」として感得するのである。

 物の哀れ、物は哀れである。哀れとは、慈しみを抱いた大いなる柔らぎの心である。別名「大和魂」と言う。

 日本人として生まれて「大和魂」を知らないとしたならば、それこそ哀れである。

 言論の自由の名の元に、共産、社会主義という魔界転生の者共の、複雑奇怪な思想により、撹乱した者共が、それらを否定し、西洋哲学の成果である、マルクスの言葉の闇に陥って、足元を泥濘みに取られた。今でも、動きが取れない。

 本当のことを言うが、ナチスの極悪非道を言うが、誰も共産主義の元で行った、極悪非道の無差別殺人の、その大量さを言わない。

 ここでそれを言うには、あまりに犠牲が多く、言うことが憚られる。ナチスの比ではない。ホロコーストを言うならば、共産主義の、それを見よと言う。