新沈黙を破る 36

木村天山

 もう少し、寄り道すると、インドの思想が、ギリシャに流れていた気配がする。

 それは転生輪廻の考え方である。ピタゴラス教団にそれが現れている。また驚くことは、ブッダの在世年代と同じ頃、ギリシャでも「万物は流れる」と観たヘラクレイトスがいる。「すべては去りつつあり、なにもとどまらない」

「きみは同じ川に二度と足を踏み入れることはできないだろう」

 一切の物は、生成のただ中に在る。とすると、同じ川など存在しない。流れはただちに変化する。

 あるものは、すぐさまあらぬものになってしまう。とはアリストテレスである。

 私が驚くのは、同じような考え方が、同時に別の場所で起こっていたということである。無常の相を観たのはブッダだけではなかった。しかし、それが別の形で進化してゆくのである。

 ブッダも無常の相を得心し、それを超えることによって人生の苦から救われると説いたが、ギリシャの哲人たちは、それを思考の糧とした。

 ロゴスがどれほど分明に告げられたとしても、それに気づかない者にとっては無いものと同じである。世界を巡る経験の中で、ロゴスがしるしづけられているのである。

 ブッダは人生からの救いを、ギリシャの哲人たちは、そこから始まる人生への思索をなしたのである。ブッダは無常の相を超えるものとしての慈悲の行為を説くが、ギリシャの哲人たちは、より深く思考することを求めた。

 風土の違いであろうか。

 それではここで、私の霊学から観る。

 ヒマラヤ山脈の上空に大陸を指導する霊界が開けてある。一方、インド魔界から広がる魔界の支配は、大陸を上昇して、今のロシアまで至る。

 二つの霊的流れを受けての、波動を捕らえた人々の感性と霊感である。

 ブッダは魔界のただ中に、慈悲の思想を唱えた。人間の霊的平等を唱えた。当時のインドバラモン教は、後のヒンドゥー教に受け継がれて、カースト制を生み出す。初めから人間の格式を決めてしまうという魔界の思想である。

 ギリシャ神話を観ると、そこには、神々の姿が非常に興味深く書かれている。

 それは、地球外から地球にやってきた者たちの、混乱の様である。エーテル体を、どのように固定するかを模索していた様が、よく解る。ギリシャ神話の神々は、人間の姿になるための模索の様である。

 基本的に、インドとギリシャの霊系が違うことが解る。

 ギリシャの愛の形を観れば、一目瞭然である。エーテル体には性別はない。故に、同性愛というものも無い。しかし、この世においては、異性愛と同性愛が区別される。ギリシャの愛の最高の姿は、同性愛の形であった。つまりそれは、性別のない感覚を忘れないための方法だった。

 ギリシャの一体は、ヒマラヤ山脈の霊界の指導を受けない、霊系の違う人々の地域である。ただし後に、ヒマラヤ山脈の霊界から教えを持って、大陸を回った者がいた。それが、金の牛の頭に象徴される者である。

 ユダヤ教の神が表向きの神であるなら、その金の牛の頭の神は、裏の神である。いや、はっきり言う、ユダヤの神は魔神である。もっと本当のことを言うと、進化した地球外生物の、それもアンドロイドたちである。ゆえに、旧約聖書の神は「われわれ」と言う。

 裏の神とは、実は、日本上空に広がる高天が原神界から派生した、神である。

 

 エジプトを脱出したモーゼ率いるユダヤの民が、ある時金の牛を奉る記述が旧約聖書にある。それを見たユダヤの神は、モーゼを通して、偶像崇拝を嫌い諌める。それは偶像ではなく、もう一つの裏の神であった。今回は、これ以上、踏み込んで書くことはしない。いずれ、その神の正体を明らかにする。