新沈黙を破る 38
木村天山
ここで、少し寄り道する。
プロデューサーとは、企画、立案者である。多くそれらは、陰の存在とされる。
それはそれで問題は無い。
しかし、私が舞台に出ること嫌う人が多い。その理由は陰の存在であるプロデューサーだからだというものである。
馬鹿も休み休み言えという。
結論から言う。私が有名になれば、何も言わないのである。そういうものである、世の中というものは。だから馬鹿だと言うのだ。
バッハなんとかという団体のプロデューサーは、どうだ。彼は自分で企画、立案して、自分も舞台で演奏する。はては解説する。そいう者には、言わないのである。有名だからである。簡単なことである。
有名になれば、誰も言わない。だから、私は馬鹿だと言う。
藤岡存命の頃も、私が舞台で挨拶したり、解説すると、非難の声、轟々であった。
そう、私は有名ではないからである。
何と愚かな者共であろうか。有名になれば手のひらを返すのだろう、きっと。
馬鹿馬鹿しくて、付き合っていられない。
声楽家は、大半が馬鹿だから、話にならないが、そうではない人の中にも、そういうことを言う人が多いから、驚く。
演歌師と前置きして歌うのである。しかし、声楽家は、自分の方が偉いと思う。演歌などとは、自分たちの歌う西洋の歌は、格が違うと思う。思い込む。
いずれ、日本のコンサートが、どうのように形成されていったのかを、書く。そして、どうしてこんなにヘンチクリなコンサートになっていったのかもである。
プロとは、お金を貰って歌う。アマとは、お金を出して舞台の一部を買って歌う。簡単に言うとそうである。とすると、声楽家のプロというのは、ほんの数人程度であろう。それを知らない。クラシック音楽家は、皆そうである。
もはや、時代は、そういう音楽家を必要としない。
良い音楽は、ただで手に入る時代である。
それでも、コンサートに行くというには、余程の意味が無ければならない。
世の中に、こうでなければいけないということは、無い。有ると思うのは妄想である。年老いた者に、そういう者が多いが、死んだ方がよい。
プロデューサーが舞台に出て歌っても、何の問題も無い。ある訳がない。
陰の者がいなければならないということもない。
おおよそ、一神教の人々に、絶対という言葉が使われるが、この世に、絶対というものは無い。ある訳がない。
勿論、唯一の神を信じていることには、何の問題もないが、それは勝手なこと。人に強要すべきことではない。
だから、私はユダヤ教を嫌う。徹底的に嫌う。そこから出た、キリスト教、イスラム教は、皆、絶対という言葉を平然と使うからである。そんなことは、有り得ないということを知らないからである。
有名になれば、何でも許されるということから時代は、おかしくなった。
以下省略。