新沈黙を破る 39
木村天山
7月29日、土曜日、私は演歌師、歌師として、初めてピンでリサイタルを開催した。
それは藤岡の追体験であると共に、私自身のプロ活動としての始まりである。
昭和歌謡と童謡を歌った。歌謡は、芸術歌謡として、童謡も芸術童謡としてである。
この意味が解れば、幸いである。
歌曲を芸術と冠する理由は何か。
それを、投げかけて以下省略する。
さて、リサイタルである。私は、自分の考えの甘さを知った。私は舞台に立つ者である。それは舞踊、朗詠、講演としてである。歌でピンで立つとは、初めて。
結論から言う。あれは、アホでなければ、馬鹿でなければ出来ないことである。もっと言えば、余程、おめでたいか、恥知らずか、恐れ知らずか、兎に角、通常の感覚では出来ないことである。
声を聴かせると言うことでは無かった。己の裸を人前で披露するという程の感覚である。ソプラノらが、派手派手の衣装を身につける理由が解った。そうでもしなければ、やれない、歌えないのである。
声を聴かせる、裸を見せる。だが、そう考えたくない故に、衣装を着ける。
私は、着物の着流しで歌った。三度程、着物を替えた。
着物を替える、それは気持ちを替えると同じである。
歌の内容によって、着物を替える。これは、大変なことである。つまり、私の歌に対する思いが、そのままに出る。要するに、私の歌への理解が、である。
お解りか。
歌をどの程度に理解しているのかを、着物で現し、尚、歌うのである。
歌謡曲には、歌曲と同じように意味がある。童謡もしかり。単なる意味無しの童謡はない。そして、その意味を深めると、それは私の人生観に成る。私は歌を通して、人生観を披露する。それならは、話をした方が楽である。踊った方が楽である。何故、歌うのか。それは、何故生きるのかという問いと同じものであると気づいた。
気づいた時に、舞台で歌っていた。
哲学や思想や信仰や、言葉の世界、精神の世界が成っていなければ、歌など歌えるものではないと気づいた。
そして、藤岡のことを思った。私がリサイタルを計画して、開催した。それに彼は従って、歌ってくれた。そして感動させた。誰をか。私をである。いつも、そうであった。私が感動する歌を、藤岡は、歌っていた。奇跡である。
私は、藤岡の同じ歌を何度聴いても、感動した。
プロは、言う。本日の歌は、音がぶらさがっていた、音程がどうの等々。それはいい。私は感動したのである。
藤岡自身が、納得しないという歌にも感動した。
私は藤岡の歌の何に感動したのか。
それは藤岡の人生観、思想、哲学等々、彼の精神、つまり言葉の世界に感動したのである。物言わぬで良し。歌で伝えたのである。私は、それに感動した。
それでは、藤岡の根本的な、人生観を言う。それが私の求めていた「もののあわれ」であった。だが言う。本居宣長の言う「もののあわれ」を超えたものである。
国学と言う分野を超えての「もののあわれ」である。それは仏教で言うところの無常感でもない。
在って在るものの「もののあわれ」である。
空とか、無という、小細工した仏教哲学ではない。
キリスト教が言う、絶対的神の在るという「もののあわれ」ではない。
実存主義の「もののあわれ」でもない。
私が求めていた、大宇宙と、大自然と共生、共感するという「もののあわれ」であった。 藤岡の歌は、「もののあわれ」にある「慈悲」と「悲哀」の歌であった。
ここで私は、悲という字を二度使う。
藤岡の「もののあわれ」は「悲」に在るものである。
存在の「もののあわれ」であり、存在の「悲」である。
あの声の波動に、それを感じ取った人は幸いである。
言葉にすると、ウソになると解っても書く。
「もの」とは存在するもの、すべてのことである。言霊から言う。オである。オとは、送る、贈る、届ける、差し上げる等々の意味がある。神送りの時に「おーーー」とお送りする音霊である。
「あわれ」とは、ア、ア、エとなる。哀れと漢字にすると、限定される。アとは、開く、拓く、事の初め、天照らすのアである。つまり最初に踏み出す。エは押さえる、抑える、圧える、つまり、止め置くことである。
存在を開き、そして押し止どめて、留めて置く。「もののあわれ」である。そこに在るものの姿である。それを「もののあわれ」と言う。
「悲」は悲しみ、哀しみ、愛しみである。
そこに在るものの「悲」である。
神や仏、天や道に転化する世界ではない。妄想の世界ではない。
我ここに在りの「悲」である。それを「もののあわれ」と言う。藤岡の歌には、それが在った。
私はもっと言う。この世の、この次元の存在のゆらぎ。ゆらぎとは、ウ、ア、イと音霊になる。簡単に言う。イは受け入れる、ウは迎える、ゆらぎとは、揺らぎと限定されるものではない。ゆらぎとは、存在の確実さを受け入れる。
簡単に言う。我が在るということである。揺ら揺ら揺れていることではない。
この次元に在ること、この世に在ることを、絶対受容することである。
多次元の世界の中に在る、一つの次元の世界に在るということである。この次元にゆらいでいるのである。
これ以上の語りは止める。
以下省略。