新・沈黙を破る 42

木村 天山

 それではルネッサンスが音楽に与えた影響とは何か。

 精神的態度が変化したことからの、世俗音楽への関心である。

 精神的態度とは、教会によって抑圧されていたもの、つまりすべては神によるものという精神的態度である。神のための神によるという、神の僕だけではない人間の姿を追求していいのであるということ。

 蒙昧と無明の中世を抜け出て、ようやく人間としての喜びを甘受しても誤りではないという精神的態度である。それは、イスラムやモンゴルとの交易によって得た商人たちの確信が、伝播したのである。

 色々な価値観がある。これは目覚めである。

 そしてもう一方では、ギリシャの哲学者たちの、自然観察から始まった、人間らしさである。それを復活させたいと考える、物を考える人々が現れてきたのである。

 ルネッサンス時期の哲学に関しては、後で述べる。

 教会音楽は、依然として作曲家たちに押し付けられる仕事であったが、次第に、その祈りの歌から解放されて、つまり新しい感覚で曲を作ることが出来るようになったといってよい。

 中世においての音楽は、ムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)ムジカ・フマーナ(人間の音楽)ムジカ・インストゥルメンタリス(楽器の音楽)だったが、ルネッサンスの理論家ティンクストリスの「音楽用語定義集」では、ハルモニアを「美しい響き」と定義するのである。そして、音楽をムジカ・アルモニカ(人間の声によって作られる音楽)ムジカ・オルガニカ(空気の流れによって発音する楽器による音楽)ムジカ・リトミカ(触れることによって音を発する楽器による音楽)と定義された。

 ハーモニーが数から美へと変容したのである。

 これは画期的なことである。何事も、今までの通りを人間は正しいと思い込む習性がある。新しいこと、新しい考え方、新しい方法を試みる者を、異端視したり、理解出来ないが故に、攻撃または批判し、非難する。それは私が実証済みである。

 数から美へと変容する、つまり美学なるものの目覚めである。と共に、芸術、アートの芽生えであろう。

 この頃の美とは、何か。快いもの、心地よいもの。

 中世の音楽に流れるものは、神への畏敬であり、あの世への不安と死後の世界の不確かな恐れである。石作りの教会で、修道院で木霊した神の言葉のような重厚な響きとは違い、伸びやかな旋律と響きの温もりである。

 音を楽しむという気持ちに達したのである。

 現代に言う音楽に近付いてきたのである。

 音楽は、宇宙を司る数的秩序ではなく、実際に響く感覚的な存在であると捕らえられた。 

 このルネッサンスの少し前の14世紀の、アルス・ノヴァの時代を振り返る。

 オルガヌムから生まれた、モテット、そしたアルス・ノヴァは、新しい芸術という意味であるが、それはまだその時を迎えてはいない。

 アルス・ノヴァは、フィリップ・ド・ヴィトリの理論書に由来する。そこには、三位一体を表す三拍子だけではなく、二拍子系のリズムを正確に表現できる記譜理論の提示であり、それは記譜法の新しい技法であり、音楽的なものではなかった。

 つまり、モテット音楽は、神とは関係なく、三拍子に拘らず、二拍子を導入したい欲求にかられたのであり、それは芸とか楽しみとか、人間の基本的表現欲求の賜物であろう。 アルス・ノヴァはモテットの最終を意味し、次に至るための、要するにルネッサンスへと至る伏線であった。

 ちなにみに、いつも時代もアホがいて、教会は二拍子の音楽を、不謹慎であり、神を蔑ろにする音楽であるとして、とんでもない非難を浴びせ、ついには、ローマ法王ヨハネス22世の命により、禁止されるという暴挙に至った。

 いつも時代も、今の時代も、アホがいて、新しいものに対して、暴挙と言う行為行動に至る。それは、私が実証済みである。

 一年間、藤岡宣男の追悼コンサートを開催するという暴挙に出ると、無視、いやいや、陰で藤岡を過大評価し、気持ちの悪い追悼公演などを続けているという批判なのか非難なのかを、繰り返した。

 世の中が、それでは受け入れないという声も多くて、私は、辟易した。誰が、お金を出してホールを借り、誰がお金を出して告知をしているのか。私であろう。

 誰も出来ないことを私がやる、やれるということへの嫉妬、僻み根性の何物でも無い。

 今、日本の著名な音楽家が死んでも、誰が、一年間、それも毎月、3回も4回も追悼公演をやるか。そんな価値のある音楽家がいるか。いないであろう。

 藤岡宣男がいかに価値のある音楽家であったのかを、私が実証したのである。

 

 悪名高きローマ法王と、私は席を同じくしない。

 蒙昧と愚昧に満ちたローマ法王に、よくぞ何億人もの信者が集っているのか理解に苦しむのである。

 信じる者は、いつの時代も騙されている。

 死後も騙されている。カトリックの言う、天国は霊界に無いのである。

 霊界にあるのは、キリスト教霊界であり、そこでは、狂信した信者や、理屈をこねった神父たちが、喧々諤々を今でもやっているという様である。

 死後の世界は想念の世界であるから、実は、その魔界を天国だと信じている者多数あり。哀れである。

 

 14世紀の歴史的事実を次に上げて、音楽史の理解とする。