新沈黙を破る 46

木村天山

 さて、百姓だったヨーロッパ人が世界制覇に乗り出したのは、小さな国、ポルトガルである。大西洋に航路を拓くという新しい考え方を持った。

 アフリカ探検事業が、エンリケ航海王子の手で組織されたのである。

 王子の死後も探検事業は進み、1488年には、アフリカ最南端の喜望峰が発見された。それはアフリカを迂回してアジアに至る航路の前身であった。

 

 そうした中で、コロンブスはイタリア商人とスペイン王室の援助を受けて、大西洋に乗り出し、アメリカ大陸を発見。16世紀には、マゼランが世界周航に成功する。

 ヨーロッパ世界の拡大である。それは皆、小さな人々によって成された。

 小さな人々とは、異端者である。変わり者たちによってである。

 歴史はいつも、変わり者がリードする。そして理解に苦しみつつ、新しい時代を明ける。 ところがヨーロッパの拡大はまた、悲劇を起こす。つまり他民族の殺戮である。

 スペインはアメリカ大陸のアステカ帝国、インカ帝国を滅ぼして、先住民を奴隷として鉱山を開発する。そして広大な土地をプランテーションとして開発させて、砂糖、コーヒーなどを栽培させ、労働力が足りないと、アフリカの黒人を奴隷として大量に送り込む。

 ヨーロッパ諸国は、アメリカから大量の富を手に入れる。それが資本主義経済の元になるのだ。多くの犠牲のうえに成り立ったのである。

 その記憶が今に至るまで生きていて、色付き人間は、人間ではないと思うである。

 兎に角、野蛮で無知蒙昧であることは、理解できたと思う。

 選民意識は、ユダヤ教の、ヘブライ人、つまりユダヤ人の専売特許である。神に選ばれた民であるという奢りである。

 それが未だに安住した土地に住めないという悲劇である。

 怒りと嫉妬の神を戴く民族であるから、その程度も知れている。イスラエルという国は、いつまでも安住を許されない。何故か。

 旧約聖書の解釈を誤っている。その謝りを、私はついか書くことにする。ここでは、これ以上触れない。よって以下省略する。

 ヨーロッパ人は、そのユダヤ民族の神と同じ神を奉ずるのであるが、救い主、イエス・キリストを神の子として受け入れた。ユダヤ教徒は、イエス・キリストを一人の預言者と認識する。大きな違いである。

 ヨーロッパ人もまた、特別な選民意識を持つのである。

 人間は、我らだという。他の人種は、人間にあらずなのである。

 ただしここで言っておくことは、イエス・キリストは、エルサレムという土地に生まれた。そこはアジアである。イエス・キリストもアジア人であったということだ。

 

 だが、驚くなかれ。不寛容の一神教のキリスト教も、既成のカトリックに対して、プロテストが起こり、新派が立つ。プロテスタントである。それなが、血みどろの戦いを繰り広げるのである。

 16世紀の中頃から、およそ100年間に渡り、宗教戦争が起こる。

 果たして、神はいるのか。神という名称をつけた神もどきであろう。

 日本にも、キリスト教徒はいる。しかし、彼らは、キリスト教の不寛容、排他的の凄まじさを知らない。知らないことは無いことであるから、救われている。

 神などいないということを潜在的に知っているのであるとは、私の考えである。だから、非寛容にも排他的にもなれるのである。

 熱心なクリスチャンであれば、神のために他の人間を殺してもよしと考える。自分が殺されてもいいとは考えない。勿論、クリスチャンに限らず、非寛容、排他的な宗教信者は皆、そう考える。

 相手の神を叩き潰すのである。それが正義と言う。聖戦、実に恐ろしい信仰という名の暴力である。しかし、それを反省する宗教は、今のところ、ひとつも無い。

 

 日本には宗教戦争があったかというと、浄土真宗と日蓮宗がある。念仏と題目の戦争である。それ以外は無い。蘇我氏と物部氏の仏と神の戦いは無い。あれは氏族争いであり、宗教の名を語っただけである。

 当時、氏族連立政権であるから、当然争いはある。それを神道と仏教の争いと解釈するのは、間違いである。神道は、寛容であり排他的ではない。見よ、仏教も、儒教も、道教も、難無く神道は受け入れた。キリシタンの迫害については、性格が全く違う。あれは国を守るためのものであり、キリシタン迫害を言う前に、ローマ法王の日本侵略を言わなければならない。日本をローマの属国にするための布教であった。

 未開の地にキリスト教を伝えることが、文化を伝えることであるとうそぶき、植民地化するという仰天である。